2010年3月20日土曜日

麒麟は老いても

若い頃、吉本隆明(ばななの父)に心酔していた時期があった。
全集を読み、吉本主宰の雑誌『試行』を読み、読書ノートをつけた。
吉本は文字どおり目の前に聳える「知の巨人」に思えた。

あれから30年。吉本の本を手にすることはマレになった。
晩年の著作に以前ほど共感できなくなった、というのが主たる理由だが、
あの独特のクセのある文体への違和が、ここへ来て増幅されてきたのかもしれない。

吉本の文章は凹凸があり、読みにくい。対談集などは繰り返しばかりである。
私は小林秀雄や石川淳といった江戸っ子の啖呵みたいな文章に親しんできたので、
一語一語、石版をノミで削るような吉本の文章は、鈍重で田舎くさい感じがした。
しかし同時に、あれだけ緻密で堅牢な論理を組み立てるには、硬質そのものの、
色気も素っ気もない文章が必要なのだろう、とも思っていた。

NHK教育テレビで『吉本隆明語る~沈黙から芸術まで』を見た。
昭和女子大の人見講堂で2000人の聴衆を前に語った講演を編集したものだ。
相変わらずしゃべくりはへただった。が、(俺の話を遺言だと思って聴いてくれ)
とする魂の叫びみたいなものは伝わってきた。この世の中の仕組みが分からなくて
悩んでいた若い頃、経済学を学ぶに如くはないと、アダム・スミスからマルクスまで
徹底的に読み込んだ、という話がとりわけ印象的だった。

吉本の作品は数々あれど、個人的に最も大きな影響を受けた作品は、
『マチウ書試論』と『共同幻想論』だ。マチウ書(マタイ伝)試論は、いかにして
原始キリスト教がユダヤ教の教典を自らに取りこみ、新たな教義を確立していったか、
その過程をマチウ書を通して分析した書だが、そこに厳としてあるのは
〝剽窃と憎悪の感情〟である、と吉本は断じた。一読巻措く能わず。
私は衝撃のあまり、その後しばらくはボーゼンとしていた。すごい本だと思った。

イエスの存在はまったくのフィクションではあるけれど、
イエスに象徴される強い思想の意味は無視できない。
マタイ伝の仮構はその発想を逆向きに辿ることによって、
そのメカニズムを容易にさらけ出す、とする吉本の手並みは
マジックを見せられているような見事さだった。

講演には新たな発見というものは特になかった。
これは多少残酷な感想だが、正直、「吉本老いたり」の感を深くした。
やせさらばえた腕にこけた頬。白い鼻毛ばかりがやけに目立って悲しかった。
作家や思想家は作品を読むだけで十分だ、と思った。

しかし86歳の高齢で、いまなお真理への探求心が衰えないのは凄い。
若いうちは吉本「ばなな」などではなく、もっと噛みごたえのある
吉本「隆明」を読んだほうがいい。青春期に思いっきり咀嚼力を高めておかないと、
大人になっても蒸しパンみたいな本しか読めなくなってしまうからだ。

一般に、団塊の世代が吉本の影響を強く受けた世代と云われているが、
ほんとうにそうだろうか? 俗にあの世代は妙に理屈っぽく尊大で、
やたら群れたがるという癖(へき)がある、なんていわれてるけど、
吉本御大は理屈っぽいことは理屈っぽいが、尊大じゃないし群れもしない。
だいいち「戦争を知らない子供たち」だとか「We shall overcome」などという、
思わず赤面したくなるような嘘くさい歌を、得意になって歌った
坊ちゃん嬢ちゃん世代とは断固一線を画してる、と思うのだけどね。

竜頭蛇尾に終わった全共闘運動を、いまだに手柄話のように語るおっちゃんたち
がいるけど、アホかいな、と思う。
吉本を読むのもいいけど、正しい咀嚼力を身につけた上でないと、
こうした甘ちゃんのアホ世代の二の舞になるよ、とここで改めて念を押しておきたい。
あ~あ、これで団塊世代の友人は確実にサヨナラしたな。ま、仕方ないか……。

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