2010年5月25日火曜日

本棚が消える日

学生時代、友人Y君の下宿を訪ねたら、6畳一間にミカン箱と
読みさしの本が数冊置いてあるだけで、あとは何もなかった。
テレビはおろか、机もなければ本棚もない。殺風景といえば、
これほど殺風景な部屋はなかった。

大学卒業後、英字新聞の記者となったY君は、秋田出身の英才で、
猛烈な読書家だった。ところが彼の下宿には、読書家を思わせるような
痕跡がまるでなかった。それも道理で、Y君は読んだはしから古本屋へ
売り飛ばしていた。そしてその代金で、また新しい本を買う。

僕は彼の合理的かつシンプルな読書生活をカッコいいと思い、
さっそくマネてみた。買う→読む→売る→買う……おかげで学生時代の
蔵書数は実に貧寒なものとなった。そして今はというと、増えるにまかせている。
当然ながら本棚に収まりきらず、床に積み上げたり納戸に押し込んだり……。
数えたことはないが、駄本の数はおそらく万の単位になるだろう。

しかし、これからは「本に埋もれた生活」というものを想像すること自体が
むずかしくなるかもしれない。アップル社のiPadは13ミリの厚さで重量は
たったの680グラム。が、約50万冊分(最大64ギガバイトの場合)の本を
すっぽり収めてしまうという。へたな図書館の蔵書なんかiPad1台あれば
すべて飲み込んでしまう。

紙の本と電子本。どっちも長短あるが、世の趨勢は徐々に電子本のほうへ
傾いている。金利のかさむ物流倉庫は不要だし、絶版なんてものもなくなる。
iPadひとつあれば、とりあえず読書人を標榜できるのだからこんな便利なものはない。

そのうち、紙の本で育った世代と電子本世代との間で、
空前のジェネレーション・ギャップが生まれるだろう。
「あのインクの匂いとかページをめくる時の指の感触がたまらないんだよな」
と旧世代が夢見がちに言えば、
「なに、それ? 俺たちだって指でページをめくってるよ」
と新世代が訝しがる。

文庫本をポケットに突っ込んでのひとり旅。
河原の土手に横になり、緑風に吹かれながら読みさしの詩集を開く。
気のきいた一節には傍線が引かれ、書きこみがしてある。
幾度となくひもといたお気に入りの本。青春期の悲喜こもごもが、
その一冊に丸ごと詰めこまれている。紙本が持つこうした風情や余韻を、
後代の電子本世代にどうやって伝えたらいいのだろう。

いま、五木寛之の『親鸞・上巻』をパソコン上で読んでいる。
無料公開されているので、ためしにダウンロードしてみたのだ。
たしかにページを〝めくる〟のだが、マウスでクリックしてめくる
という感覚になかなか馴染めない。むしろ指先でめくれるという
iPadのほうが、われら旧世代には馴染めるかも。

読書のスタイルもどんどん変わっていく。
ペンでなければ原稿が書けない、と駄々をこねていた自分も、
いまや「キーボードでなけりゃ一文字も打てない」とうそぶいているのだから、
そのうち、「やっぱ電子本だよね」などと、鳩山君みたいにあっけらか~んと
宗旨替えをするに決まっている。《それ君子は食言せず……》か……。
とてもじゃないけど、君子なんぞにはなれそうにない。

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