2011年8月15日月曜日

納棺師は美人がいい

第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』の影響か、
日蔭者の葬儀業者にも光が当てられ、若い人の中には、モックン(本木雅弘)
の演じたカッコいい納棺師に憧れるものも少なくないという。

母が死んだとき、実家で『おくりびと』のシーンそのものが目の前で
繰り広げられた。バリッとした制服の美人納棺師(美人というところがミソか)
が母を湯灌し、洗髪し、ドライ後は髪型を整える。そして着物をきせ、髪を染め、
ファウンデーションや口紅をつける。これら一連のパフォーマンスを、
一種のアトラクションのように遺族の前で披露するのである。

口紅の色は何色もズラリと揃い、「どのお色にいたしましょうか?」と納棺師
(死化粧師という場合もある)に尋ねられたが、男衆にはさっぱりなので、
ここは女衆に助けを請い、上品な色を選んでもらった。
死化粧(最近はエンゼルメイクとかラストメイクと呼ぶ)の出来映えは
予想以上にすばらしく、母の女っぷりも2~3割アップしたかのように思えた。

一方、死装束というのは、昔から変わらず白無垢に手っ甲脚絆、
白足袋というダサ~いいでたち。21世紀になったというのに、
あの世では時間が止まっているようで、こればかりはどうにもならない。
しかし三途の川の渡し賃は、数百年のあいだ値上がりもせず、
また年収960万円の所得制限もなく、一律六文と変わらない。

三途の川というのは、初七日に渡るという川のことで、
川の瀬に緩急の異なる三途(3つの渡し口)があって、
その選択は生前の業(罪)の軽重によって決まるという。

●善人……架かっている橋を渡る。
●小悪人……やや深みを歩いて渡る。
●極悪人……深くて流れが急なところを泳ぎ渡る。

しかし以上の三途は平安時代の決まりごとで、室町時代になると、
いくぶん便利になり、善人でなくとも、六文の渡し賃さえ払えば、
貧富貴賤の別なく豪華カラオケ付きの渡し舟で彼岸まで送ってくれるようになった。
ずいぶん楽ちんになったのである。

もっとも、泳ぎ上手のボクなら、激流も濁流もものともせず、
優雅なバタフライで泳ぎ切り、鬼たちの鼻を明かせてやれるのだが、
カナヅチの母となると、まるまる渡し賃を払うしかあるまい。
しかし海千山千の母のことだ、逆に鬼を脅して有り金を
残らず巻き上げているにちがいない。

今週末の20日、早くも母の四十九日(七七日忌)を迎える。
忌中だからと、ことさら身を慎んで過ごしているわけではない。
手元不如意のため、しかたなく身を慎んでいる。
あの世でもこの世でも、カネがなくてはどうにもならない。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

勞さん:

我が家の宗旨は浄土真宗で 逝く人が黄泉の先達に失礼が無いように、体を清め、顔を剃り、
紅を薄く刷き、小奇麗な着物を着せさせます。

浄土真宗ではただただ ”南無阿弥陀仏”を唱える事で阿弥陀様が 悪人も・善人も・全ての
人に救いの手をのびてくれて、浄土に連れて行って呉れます。手っ甲、脚絆、白足袋は不要で、三途の川の渡し賃も要りません。真に有難い教えです - 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

閑話休題(それはさておき):若い頃出張帰りの機内でアメリカの葬儀社の夫婦と隣合わせたことがありました。話題に事欠いて、葬儀代金を貰った時に"Thank You"と普通の商売の場合のようにお礼を言いますかとバカな質問をしたもんです。”今生きている方々に奉仕しているから対価を得た時は"Thank You"と言いますよ”とスパッと答えてくれました。

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

匿名様

親鸞の言うところの悪人正機説は
なかなか解釈が難しいですね。


むかしは「どうせ救われるんだから」
とわざわざ悪いことをする
「本願誇り」と呼ばれる
不心得者たちがいたそうです。

浄土というのは
どんなところなんでしょうね。

「白河の清きに魚のすみかねて……」
というのではつまりませんね。
濁った田沼のほうが
ボクには合っているかも。