2011年10月25日火曜日

もったいない

読売新聞の「読書」に関する全国世論調査によると、
「この1カ月間に何冊くらい本を読みましたか」(雑誌は除く)
という質問に、
①「読まなかった」が51.9%、②「1冊」が16.7%
という結果だった。

そして「本を読まなかった理由」を尋ねると、
①「時間がなかった」が48.6%、
②「読みたい本がなかった」が20.4%
なんと④「本を読まなくても困らないから」が18.0%もあった。

「本を読んで考え方や人生観に影響を受けたことがありますか」
という質問には、
①「ある」が63.2%、②「ない」が34.6%という結果だった。

これらの調査結果を見て、それぞれの思いはあるだろう。
ワンガリ・マータイさんではないが、ボクはまず「もったいないな」と思った。

目の前に人生を豊かにしてくれる宝の山が眠っているというのに、
みんな素通りして、それでいて二言目には「癒されたい」などと呟き、
幸せを求めてさまよっている。

なるほど本なんか読まなくても生きていけるし、
実生活の上ではたしかに困ることはないだろう。
情報ならインターネットやテレビからいくらでも取れる。

しかし、自分の生き方に大きな影響を与えてくれるものといったら、
今のところ「読書」しか思いつかない。
しかるに本から処世を学んだ経験がない、
というものが約35%もいるという現実。
もったいない、という外ない。

本好きになるためにはどうしても「濫読」という助走期間が必要となる。
あたりかまわず読み散らかし、自分にピッタリの「尚友」と出会うまでの
見習い期間である。この濫読経験のない者は、なかなか本好きにはなれない。

たとえばボクは、'47のルースト盤『バド・パウエルの藝術』というレコードの中の
「I should care」という曲にめぐり合わなかったら、ジャズにのめり込むことは
なかっただろうし、石川淳の『夷齋筆談』を読まなければこの作家のとてつもない
巨きさを思い知ることはなかった。この偶然の出会いが生まれるまでに、
いったいどれだけ道草を食ったことか。そしてまたどれだけ授業料を払ったことか。

「本を読まなくても困らない」と答えている人は、
本のすばらしさにふれる遙か手前で、自らチャンスを棒に振り、
生涯の友と出会う途を閉ざしてしまっている。
これほどもったいないことはない。

数えたことはないが、本にふれない日はまずなく、
日に1冊、多い日は3冊、仕事で速読しなければならない時は、
日に10冊以上読むこともある。この数日、急ぎ仕事があって、
膨大な資料読みに忙殺されたが、それでも慣れてくれば
それほど苦にならない。

読んでる「時間がなかった」というが、たぶん半分はウソで、
「本を読む習慣がそもそもない」というのが正直なところだろう。
本好きはどんなに忙しくても本を手に取る。
いや、忙しいからこそ本に潤いを求めようとする。
そういうものなのだ。

定年になったら山ほど本を読むよ、という類の人に本好きは少ない。
忙しい時に本を読まない人は、ヒマになっても本など読まないのだ。

作家の井上靖はこんなことを書いている。
《読書の楽しさを知ると知らないでは、人間の一生がまるで違ったものになる。
お花畑を歩くのと砂漠の中を歩くぐらいの差違がある……》

秋の夜長、寝る前のひとときを読書と共に過ごす時間は
何ものにも代えがたい。今は再た、若い頃に親しんだ
小林秀雄や荷風をゆっくりと読み返している。
日本語の美しさと勁直さを心より味わいながら。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

勞さん:

若いころ学校で朝から晩までがBusiness English一辺倒で過ごしましたから卒業の際に担任に言われました「お前たちはそん所そこらの大卒より実務能力では数段優っているはず。が、一般教養に欠ける。社会人になったら本を先生としてものごとを広く学べ」素直な私は本を漁っもんでした。

或る時に昔朝日新聞論説員をやっていた
扇谷正造が「若い者は一日4回飯を食え。3回は米の飯で、一回は活字の飯だ」と何処かで書いているのに出くわし当を得たように神田の
本屋街を歩き続け、結果勞さんには到底及びもつきませんが定年退職になるまで年間100超を果たせました。

我が家には娘が二人て、いつかはパパの書架から本を抜き出し読んで呉れるかと期待していたのですが嗚呼。。。。 4年前に家を建て替えた時に、300冊ほど残し、他は全部処理しました。好きだから残した本なのに、再読・再再読の為に手を出さなくなったのはこれ如何にです!?

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

匿名様

扇谷さんの「1日4回飯を食え」
の喩えは面白いですね。

滋養に富む、という点では
飯も活字も同じで、
若い頃はそれぞれを
てんこ盛りにして食べなくては
いけませんね。

濫読という「量」をこなし、
孜々として学んでいると、
必ずや或る時期を境に「質」へと
転換していきます。
ここで初めて真の読書家が
誕生するわけです。

読書はあくまで個人的なもので、
読書家の子が読書家になるとは限りません。
わが家もその点ではハズレでした。

これからは電子書籍の時代で、
書架というものがなくなるのでしょうか。
なんだか味気ないですね。