2011年6月28日火曜日

反省しろといわれても

ボクが冗談半分に「実は戦中派なんです」というと、
「えっ? たしか昭和27年生まれと聞いてますが……」
と、みな訝しげな顔をする。

半分冗談とは言ったが、国際法上からすれば、
ボクは正真正銘の「戦中派」にカテゴライズされる。
なぜか? 日本が国家主権・独立を回復した
サンフランシスコ講話条約の発効(1952年4月28日)以前
(2月生まれ)に生まれているからである。

講和条約が発効する前までは「戦争状態」が継続しているわけだから、
ボクが「戦中派」を名乗っても何ら不都合はない。

何度もいうが、ボクは「東京裁判」(1946.5~)なんてとんだ茶番だと思っている。
裁判の根拠はGHQ(Go Home Quickly〈とっとと失せろ!〉の略です)
が公判直前にこしらえた極東軍事裁判所条例という一片の文書に過ぎず、
おまけに裁判官と検事がハナからグルになっているのだからお話にならない。

だいいち、前年の8月15日には日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連が、
千島列島から北方領土へと侵攻を継続していた。その火事場泥棒の
ソ連が、いけしゃあしゃあと東京裁判の検事席、判事席に座っているのだから
これを茶番と言わず何といおう。

しかも日本将兵ら数十万人を連行し、極寒の地シベリアで酷使するという
明白な国際法違反を犯している。その犯罪国家が厚顔にも
我らを前に正義のお裁きを行う、というのだから笑わせる。

ハレンチ国家はソ連だけではない。東京裁判中、イギリス、フランス、
オランダによるアジアへの再侵略も〝同時進行中〟だった。

日本はアジア「諸国」を〝侵略〟した、とされているがこれは間違いだ。
当時の東アジアには、中国、タイの他はアメリカ、イギリス、フランス、
オランダなどの植民地しかなかった。独立国家ではなく、欧米諸国の
〝領土〟だったのだ。日本はこれらの「領土」内に侵攻した。

唯一の国際法学者であったインド代表のパル判事は、
「欧米諸国が自らの帝国主義的侵略行動を歴史に照らせば、
そもそも日本を裁く資格などない」と、日本無罪論を展開した。
しかし多勢に無勢、裁判の名を借りた復讐劇は強引に推し進められた。

戦後60有余年、毎年8月15日が来るたびに、「日本一国性悪説」的な反省を
強いられ、あまつさえ「ドイツに比べ反省が足りない」などとお叱りを受ける。
いったいわれわれは何をどう反省したらいいのだ?

そもそも日本一国だけが反省すれば済む問題なのか?
インドネシアやベトナム、フィリッピン等の独立を手助けした日本が
独り反省し、独立を妨げ図々しくも再植民地化を目論んだ欧米諸国は、
反省どころか自分たちの犯罪に頬被りし、一方的に日本を断罪している。
(勝てば官軍っていうけど、これって、むちゃくちゃアンフェアだよな……)
戦中派のボクとしては、どうにも納得がいかないのである。

♪夏が来ゥれば思い出すゥ……のは「はるかな尾瀬」ではなく、
理不尽な東京裁判と、その自虐的裁判史観に骨がらみで
囚われてしまっているかわいそうな人たちのことだ。

もういいかげんに目を醒ましたらどうなんだ。






2011年6月25日土曜日

時に感じては……

PTSD患者(特に閉所恐怖症)のボクは、
極端な話、鼻がつまっただけで「死ぬこと」を考えてしまう。
なにを大袈裟な、とたぶん笑い飛ばされるのがオチだろうが、
呼吸を阻害するものすべてに恐怖を抱くボクのような患者にとっては、
決して笑いごとではない。

「死」は、ふだんは意識していないが、決して非日常のことではなく、
いつも日常と隣り合わせに在る。今回の東日本大震災で亡くなられた
人たちだって、まさか自分が〝こんなにもあっけなく〟死んでしまうなんて、
思いも及ばなかっただろう。「えっ、ウソ。マジかよォ……」死ぬ間際の
感慨なんて、案外こんなものかもしれない。

というのは、ボクも何度か死に損なって、
「えっ、ウソだろッ!」と心の裡に叫んだからである。

一度はこどもの頃、プールで溺れかかって。
二度目はバイクでハイヤーと正面衝突して。←奇跡的に生還
三度目は、やはりバイクでバスと正面衝突しそうになり、あわてて
ハンドルを切りガードレールに激突。←真正面からの衝突が得意?
そして四度目は過呼吸症候群で呼吸困難をきたして。←ヤバかった

生きていることそのものが緩慢な自殺だ、と五木寛之は言っている。
生まれ出るということは死を選択したことで、
必ず死ぬということを知りながら生きることは、
すなわち緩慢なる自殺だというのだ。

    ついに行く道とはかねて聞きしかど
    昨日今日とは思わざりしを ――在原業平――

バルコニーのプランターに植えたポーチュラカがぽつぽつ咲き始めた。
毎年花を咲かせてくれるのだが、最近は、こうした鉢花や鳥の啼き声
などに心を動かされるようになった。たぶん齢のせいでヤキが回った
ためだと思うが、自分でもふしぎでならない。このヤボで無粋な男が、
花びらをそっと撫で、「咲いてくれてどうもアリガトネ」
などと囁いているのだから、もう老い先は長くはないだろう。

でも、そんな〝老い〟も悪くはないな、
と近頃は逆に開き直っているのだから始末にわるい。
いよいよ年貢の納め時か。


2011年6月23日木曜日

風流は暗きもの

照明設計に携わる人たちの必読書、
バイブルとされている本をご存知か。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』がそれだ。

この小品は日本文化の本質を突いた傑作で、
照明に関しても示唆や刺激に富んでいる。

たとえば漆器の美しさについて著者は、
《……ぼんやりした薄明かりの中に置いてこそ、
始めてほんとうに発揮される》とし、現代において
漆器を野暮ったい雅味のないものにしているのは、
《採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせい
ではないだろうか。事実、「闇」を条件に入れなければ
漆器の美しさは考えられない》

谷崎の言うように、漆器や金蒔絵を蛍光灯の下に
かざしたとて美しくはあるまい。薄明かりの中、
闇に隠れた部分があってこそ、いい知れぬ余情が
生まれるからである。

日本の都市には光があふれている。いや、光の過剰と
いうべきかもしれない。公害ならぬ「光害」なのだ。

その過剰な光が、3.11の震災以降、節電の名目で抑えられている。
キャンドルナイトなどというムーブメントも興ってきている。
夜間の数時間、照明を消してロウソクの下に集まり、
スローな夜を過ごそう、というわけだ。

明るければすべてがよく見えるとはかぎらない。
光の過剰は、かつてボクたちが見ていたものを
見えなくしていることもある。

明るさというものは暗さがあって初めて生きる。
あまりに明るすぎると、「すべてが見えるが、よくは見えない」
という現象を招く。

いつも隣り合わせだった漆黒の闇を
生活の場から駆逐してしまった戦後60有余年。
いま、その反省の時を迎えている。

「風流は寒きものなり」と緑雨は言ったが、
ボクは「風流は暗きものなり」と
いう言葉に置きかえることにする。

2011年6月21日火曜日

禍福はあざなえる縄

禍福はあざなえる縄のごとし、という。
bad newsがあればgood newsもある。
でなけりゃ、心身ともにくたびれちゃう。

母が三途の川を前にして、迷っている。
抜き手で渡ろうか、それともバタフライにしようか。
向こう岸では父がストップウォッチを握り、
今か今かと待ちかまえている。

そんな〝お取り込み中〟に、次女の就職先がようやく決まった。
ゆとり教育世代が直面している超氷河期と呼ばれる就職戦線。
二次面接まではこぎつけても、そこでバッサリやられる。
挫折に次ぐ挫折(いい勉強になります)。
娘の顔からだんだん自信が失われていく。

思い起こせば、ボクの世代も就職難で悩まされた。
12社落ち、13社目に救われたのが某出版社。
いいかげんなもので、どんな出版物があるのか、
試験日の当日まで知らなかった。

一次面接で、編集部長のI氏が、
「君は独文科出身だけど、主にだれを研究したんだい?」
「独文学はからきしでして、ひたすら小林秀雄ばかり読んでました
その破れかぶれの一言が気に入られたのか、
面接は小林秀雄に関する質問に終始した。

12社までは皮ジャンにジーパンという大胆ないでたち
つむじ曲がりもここまで来ると愚かという外ない。
「小林秀雄とは、またずいぶん大人びてるねェ、君は」
そう、見た目は若僧でも心はすでに朽ちている。
小林秀雄に関してなら、何を聞かれても平気の平左だから、
ほとんど独演会。「こいつクセがあるけど、面白そう
といいほうに勘違いしてくれて、なんとか拾っていただいた。

A社に落ちてB社に受かる。落ちた理由、受かった理由、
どちらも想像する他ない。面接官との相性もあるだろう。

知人の一人娘は、面接に受かるための塾?にまで通ったという。
お辞儀の仕方から、歩く姿勢、言葉づかい、発声法……
何から何まですべて教え込まれるという。授業料はしめて17万円。

日本中で繰り広げられている就職狂騒劇。
藁をもつかみたいと、学生たちはみな必死の形相で駆け回る。
貴重な学生時代の一時期を、こんなことに浪費するなんて、
実に愚かでもったいない。が、改善は遅々として進まない。

「ようやく卒論に取りかかれるよ」と次女は嘆息。
そう、学生の本分は勉学だものね。

次女は幽冥界との境をさまよう祖母の耳元で
「おばあちゃん、就職先決まったよ。いっしょにお祝いしようね」
と報告。白髪頭をやさしく撫でた。


木の葉の落ちた痕を見ると、次に生える若葉の用意ができている。
古人はよく言ったものだ。
落花いずくんぞ惜しむに足らん、枝葉すでに参差(しんし)たり、と。





2011年6月20日月曜日

花に嵐のたとえあり

五木寛之は「人は大河の一滴」と規定した。
人間は小さな一滴の水滴にすぎないが、
それが大きな水の流れを形づくる。

そして私たちは、それぞれの一生という水滴の旅を終え、
海に還る。母なる海に抱かれながら、
やがて生命の源である太陽に熱せられて天に昇り、
そしていつの日か、再び地上へ降りそそぐ。

君に勧む 金屈巵(きんくつし)
満酌 辞するを須(もち)いず
花発(ひら)いて風雨多し
人生 別離足る


上記の詩は晩唐の詩人・于武陵の『勧酒』の結句である。
これを井伏鱒二が訳すとこうなる。

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

会者定離、愛別離苦……。
人はただ一人の例外もなく「生老病死」
の苦悩から逃れることはできない。

凡夫匹夫にとってはそのことがつらく堪えられず、
つい酒瓶に手がのびてしまう。
親鸞曰く「酒はこれ忘憂の名あり」と。

来る7月7日の七夕に、めでたや卒寿を迎えるはずの母が
いま、無機的な病院の一室で生死の境をさまよっている。
呼びかけても応えず、病室では子や孫らが
最後の別れを惜しむべく、じっと見守っている。

酸素マスクをつけ、瞼を閉じた、
気息奄々の母を見るのは悲しい。
だれもが必ず通る道、と知りつつも、
いざとなると現実をなかなか受け入れられない。


この数日、酒ばかり飲んでいる。
安酒のためか忘憂効果絶えてなし。


2011年6月16日木曜日

つつがなしや友垣

9月に川越で同窓会をやろうという話が出ている。
そろそろ還暦を迎えるので、中学校時代の同窓が集まって、
人生にひと区切りつけようというわけだろう。

還暦といわれたって、「どこのどなた様のことですか?」と、
まるで他人事みたいだが、鏡に映るわが面貌を眺むれば、
なるほど白皙の美少年はもうそこにはいない。←オイオイ

しかし紅顔緑髪から遠くなったからといって、
男の値打ちがガタ落ちになったわけではない。
むしろ総合的に見て男っぷりは上がったみたいだし、
若いときよりモテそうな気もしているのだ。←懲りないヤツ!

で、肝心の出欠だが……正直、迷っている。
かつてマドンナとして君臨した旧姓MさんやHさんが、
どんな素敵なオバサンに変身しているか。ジャーナリストの
はしくれとしては、ぜひとも確認しておきたいところだけど、
会えば会ったでいったいどんな話をすればいいのか、
いささか気が重くなる。

「実はHさんのこと、好きだったんです」
「私もSさんのこと、ずっと憧れてたの」
酔余の勢いで、こんな危ない会話が繰り広げられるかもしれない。←ないない

上手に歳をとった人、みごとにとり損ねた人。
経済的成功をおさめた人、これまたみごとにコケた人。
人生いろいろで、ボクなんかはいっとき輝いた時期も
あったけど、トータルで見るとコケちゃったクチで、
ふるさと』の歌詞にある《志を果たして いつの日にか帰らん》
という具合にはいきそうにない。←古いね

「お前、いまどんな仕事してるの?」
「子供は何人? 孫は?」
「奥さんとはどこで知り合ったの?」
「中学時代のお前って、カゲが薄かったよなァ。
いまはカミが薄くなってるようだけど……」←ほっとけ!
「おれ、いま××商事の取締役。名刺渡しとくよ」←いらねェよ
「趣味? ゴルフ。ようやくシングルになったとこ」←so what?

こんな怖ろしい会話が取っかえ引っかえ繰り返され、
おべんちゃらやらお追従笑いに終始するとしたら、
それこそ生きた心地がしないだろう。それともいっそ、
「みじめ」の一言に尽きる昔話に花でも咲かせますか?
どっちに転んでも、地獄を見そうである。

唯一の救いがあるとすれば、馬齢を重ねていても、
みなそれなりに侘び寂びて、俗臭ぷんぷんたる自慢話を
少しは遠慮するかもしれない、という希望的観測。

でもなァ……遠いむかしを懐かしむのもいいけど、
懐かしむに値するご立派な過去を持たない人間はどうしたらいいの?
考えれば考えるほど憂鬱になる。

おい、いつまでグズグズやってんだ。
出るのか、出ないのか……ハッキリしろぃ!














2011年6月12日日曜日

自分の尻も拭けやしない

久しぶりにお通じのよくなりそうな本を読んだ。痛快である。
言葉でたたかう技術』(文藝春秋)がそれで、
著者は加藤恭子という御年82歳の大和撫子だ。

しょっぱなからこんな書き出しで始まる。
《過去50年、欧米人と議論や口論になった場面で、
私は負けたことがない……》

(あンれまァ、すごいバアさんが出てきたぞ)
この啖呵売のような威勢のいいセリフに、
まずコロッと参ってしまった。

早稲田大学の仏文科を卒業後、留学のため夫婦して渡米。
住み込みのメイドとして激務に堪えながら大学に通う。
戦後間もない頃のアメリカだからまだ反日感情がくすぶっている。

「なぜ真珠湾を奇襲したの? 日本人は卑怯よ」
「原爆を落としたのは日本人のためなのよ」
どこへ行っても、不条理な理屈と冷たい視線にさらされる。
反論したくても英語力が未熟で反論できない。
「なにくそ!」と歯をくいしばって猛勉強し、
ついには英語とフランス語の達人に。

併せてアリストテレスの「弁論術」を身につけるべく猛特訓、
自家薬籠中のものにした。
欧米人と対等以上にやり合うには、日本的な話術ではだめ。
ギリシャ・ローマ以来の弁論術を学ぶしか手はなかった。

'90~'91年の湾岸戦争。日本は多国籍軍と周辺国支援のために
130億ドルも寄付(大増税までした)したというのに、諸外国からの
反応は実に冷たいものだった。曰く「いつも金で済ませようとする」
「血を流さない」「金もいやいや小出しにする」等々。

戦後、クウェートはアメリカの主要新聞に感謝を示す全面広告を出した。
が、イラクの侵略からクウェートを救ってくれた国々の中にJapanの文字はなかった。
130億ドルも拠出したというのに、日本の名がないなんて……。
ボクはこのニュースにふれた時、やり場のない怒りで気が変になるほどだった。

加藤女史は言う。「日本も全面広告を出すべきだった」と。
加藤の考えた文面はこんな感じだ。ちょっと長いけれどガマンして読んでほしい。

『われわれは先の戦争に対する反省から生まれた平和憲法によって、
軍隊を出すことは規制されている。ゆえに多国籍軍と共に戦い、
血を流すことはできなかった。
しかし、平和を愛するクウェートと、その解放に邁進する多国籍軍を
後方から支援するために、多額の経済的援助を行った。その全体額は
あまりに巨大であるため、富んだ国とみなされているわれわれでも、
一朝一夕で用意できるものではなかった。政府は増税を決意し、
国民はそれを敢然と受け入れた。クウェートと多国籍軍の支援のために。
それを何回かに分けて受け取ったのは、、盟主アメリカである。
もう一度言う。われわれは、共に血を流すことはできなかった。
しかし国民の税金から拠出されたこの援助金は、国民の汗の結晶である。
われわれは少なくとも共に汗は流した。
しかし、3月11日のクウェートによる『感謝の全面広告』の中に、
日本の国名はなかった。われわれは合計で130億ドルの援助を行った。
それはJapanというたった一つの単語にさえも値しなかったのであろうか?
日本国民は、深く傷ついている……』

日本政府は、加藤がいうような反論をなぜやらなかったのか。
政治家や官僚には、たったそれっぽっちの気概すらないのか。
なぜいつも日本人は黙ってばかりいるのか。
なぜ正々堂々とケンカができないのだ。

沈黙は「金」ってか? 日本以外の国では、沈黙は「無能」の意だ。
ああ、それにしても130億ドル(当時の日本円で1兆7000億円)とは……。

日本のやるべきことはただ一つ。憲法をすみやかに改正して
真に自立した国家となることだ。130億ドルを出したからと
大威張りなのもうすらみっともない。日本は商人の国に成り下がったか。

やはり、いざとなったら共に血を流したほうがいい。
尖閣にしろ北方四島にしろ、自国領すらも自分で護れないのなら
真の独立国とは言えまい。命より大切なもの? もちろんある。
日本人は、その大切なものを戦後のたった60余年で忘れてしまった。


2011年6月2日木曜日

だって寒いんだもの

「3.11」以来、ボクたちの生き方や考え方、価値観はずいぶん変わった。
いざという時に独り身では何かと心細いというので、
いま結婚相談所に駆けこむ女性たちが増えているという。

さて志ん生の『風呂敷』という噺の中に、
長屋のカミさんたちのこんなやりとりがある。

「お前さん、好きで一緒になったの?」
「(かぶりを振り)うゥん、好きじゃないの」
「なんか見込みがあんのかい?」
「うゥん」
「じゃ、どうして一緒になってんのさァ」
「(色っぽく)だって寒いんだもの……」

湯たんぽ代わりでもいい。さびしい独り寝よりはましだもの。
せいぜい毛深くてあったかそうなのを見つくろってほしいものだが、
目につく変化は婚活女性だけにかぎらない。マンションも分譲ではなく賃貸、
高層階より低層階志向へと大きく変わってきているという。

わが家は15階建てマンションの5階。それでもあの日は大揺れだった。
15階の住人は「生きた心地がしなかった」と言ってたくらいだから、
東京ベイエリアの超高層マンションの住人たちはどんなに恐ろしかったことか。

それともう一つ。「ダサイタマ」などとバカにされているわが埼玉県が、
〝海なし県〟ということで、思わぬ人気を博しているのだとか。
安心して住むんだったら断然サイタマがいい、というわけだ。
まるで「加齢」臭がいっきに「華麗」臭に大変身を遂げたようなもので、
なんだかキツネにつままれたような心地がする。

昨今の「断・捨・離」ブームも手伝ってか、余計なものを買わなくなった、
というのも大きい。どうせ乱離骨灰になってしまうんだから、
宝石や高級車を買っても意味がない――とまあ、こんなふうに考えちゃう。
阪神淡路大震災の時にも見られた現象だというが、
要は一種の刹那主義と虚無主義が心のうちに巣くってしまう。

地震津波によって物質主義的生き方から脱却できるというのなら、
それはそれでいいことかもしれない。宗教本がバカ売れしているというのも
その延長だろう。日本人の我欲と平和ボケはテポドンでも飛んでこなけりゃ
治らない、と再三書いてきたが、この災害を機にまともになるというのなら、
亡くなられた人たちに対して少しは申しわけが立つというものだ。

ダッサ~イさいたま県の、とある低層の賃貸アパートの、
そのまたがら~んとした部屋で、湯たんぽ代わりの亭主に抱かれ、
心安らかに眠る――これ以上の幸せなんてものが考えられるだろうか。
ザマミロ、なのだ。