2012年3月29日木曜日

国際人ってな~に?

①英語は読解できる。でもしゃべれない。
②日本語は読めるが解らない。でも英語はしゃべれる。
①は不肖わたくしで、②はわが家の豚児(次女)である。

豚児の名誉のためにいくぶん訂正すると、現代文はもちろん読解できる。
しかし古文といわないまでも、ちょっと時代をさかのぼると、もう手も足も出ない。
事実、泉鏡花の『高野聖』に挑戦したものの、巧緻を尽くした幻想的な美文に
まったくのお手上げ状態だった。しかたなく英語に翻訳されたものを読み、
ようやく「おもしろかった」との感想をもらした。

英語の早期教育が叫ばれている。が、美しい日本語、正しい日本語を
身につけるほうが先だろう、とボクは思っているが若いお母さんたちは
思わない。「幼児期から習わせなければ国際人になれない」とばかりに、
まだ日本語も満足にしゃべれないうちから幼児向けの英語塾に通わせようとする。

英語がしゃべれるというのはまことに慶賀に堪えない。ただ問題は、何をしゃべるかだ。
名論卓説などハナから期待していない。天下国家を論じろというのでもない。
話柄など卑俗であっていいのだ。が、俗な話題であっても、どこか人生の機微に
ふれるような、さりげない味つけがほしい。二十歳そこそこの娘にそんな芸当など
できるはずもないが、話の中身が〝きゃりーぱみゅぱみゅ
(正式芸名はきゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ)〟なんて、
舌を噛みそうな名前を付けたがる無脳のパープリンでは国際人もヘチマもない。

だいいち「国際人」なんていう人種が存在するとホンマに思っているのだろうか。
思っているとしたら底無しの大バカ野郎である。
何度でもいう。「国際人」なんてものは日本人の欧米コンプレックスが
生みだした幻影にすぎない。もうそろそろこの迷妄から覚めたらどうだ。

さて偉そうな説教を垂れ流してしまったが、ボクにしたって豚児の無知を笑えない。
というのは、先般、コンピュータ相手に将棋を差し、接戦の末に負けてしまった
米長邦雄名人のエッセイを読み、目が点になってしまったからだ。

米長氏はこんなふうに書いている。《実は60歳になるまで知らなかった読み方がある》と。
それはなんと「君が代」の中に出てくるというのだ。

《君が代は 千代に八千代に 細石(さざれいし)の 
巌(いわお)となりて 苔のむすまで……》
この「むす」を漢字で書くとどうなるか。実は「生す」と表記し、
「苔の生すまで」と相成る。米長氏は「むす」を「生す」と書くことを知らなかった、
と告白しているが、恥ずかしながらボクも知らなかった。

また同じエッセイのなかで、こんなことにもふれている。
「学力世界一」といわれるフィンランドでは、
9割以上が「子供の成績は親の責任」と答えているという。
《フィンランドと日本の一番の違いは何かと言えば、親が学校の先生を尊敬していることと、
子供が親を尊敬していることです。(中略)一方、日本では、子供は親の言うことを聞かないし、
親は教師を尊敬しないうえに成績が悪ければ学校のせいにする》

娘たちがまだ小さかったころ、ボクはよく学校の授業参観に出かけた。
懇親会の席で先生や母親たちを前にこんな発言をしたことがある。
「子供の前では、決して父親をこきおろしたり、教師の悪口は言わないことです」
若い母親たちは神妙な顔してうなずき合っていたが、数日後、
「◎◇ちゃんのお父さんは右翼の人らしいわよ」
こんな噂が、母親たちの間を電光のように駆けめぐった。

2012年3月27日火曜日

300÷1500=忍耐

3月25日(日)、ヨイトマケ娘の長女に誘われ、家族揃って映画を観に行った。
場所は六本木瀬里奈の裏にあるシネマート六本木というミニシアター。
東日本大震災を扱ったドキュメンタリー映画で、
題名は『PRAY FOR JAPAN~心を一つに~』だ。
監督はアメリカ人のStu Levyスチュウ・リービーである。

映画は「家族」「ボランティア」「避難所」「学校」という4つの視点からこの悲劇を追い、
家を失い、家族を失い、生きる望みさえ失った被災者たちが、
悲しみの淵から立ち直り、前向きに生きてゆく様子が丹念に描かれている。

18歳の伊藤健人は家を失っただけでなく、祖父母、母、まだ5歳だった末の弟リツまで
津波に持っていかれてしまった。大切な家族を失った喪失感と悲しみでウツ状態に
陥ってしまう健人。ある日、自宅のあった場所でふと目にしたのが泥だらけの鯉のぼりだった。

(そういえばリツが「お兄ちゃん、鯉のぼりを空いっぱいに揚げてね」って言ってたっけ……)
健人は八方手を尽くして小さな鯉のぼりをかき集め、5月5日の「こどもの日」に
天国のリツに届けとばかりに空高くコイを泳がせる。その下で響く和太鼓の激しい調べ。
バチを握り一心不乱に叩くのは、小さな弟に心を寄せる長男の健人だ……。

ある避難所には3日間飲まず食わずが1500人。
あるのは4本の飲料水のペットボトルだけだった。
貴重な水は年寄りや衰弱している人たちに飲ませ、他はガマン。

ほどなく300個のオニギリが届くが、この数では皆に公平に渡らない。
「せめて1個のオニギリを半分に分け、皆で食べられるようになるまで待とう」
リーダーたちの出した結論はそれだった。
どこまでも公平を重んじる精神と忍耐力。東北人はほんとうに強い。

また1500人分の食糧を積み込み、遠く名古屋から駆けつけたパキスタン人の
男たちもいた。「被災者の皆さんに温かい食事を食べさせてあげたい」
その一心で4週間も泊まり込み、カレーやナンを笑顔でふるまった。
「困っているときはお互いさま。国も人種も宗教も関係ないです」
なんとも泣かせやがる。

ボクの真後ろの席では、堪らずオッサンがすすり泣き。
いや、館内のあちこちで鼻水をすする音が。
(まいったな……こういうの、苦手なんだよな)

最近ハマっている社会経済学者の佐伯啓思は、『反・幸福論』の中で、
《やたら「がんばれニッポン、がんばれトウホク」がめだち……(中略)
にわかづくりのナショナリズムが噴出している》などと書いているが、
この日ばかりはにわかづくりの「絆」という名のぬるま湯に
どっぷり浸かってきた。(やっぱ絆はいいもんだな……シミジミ)←この変節漢め!

帰りは池袋で別れ、ひとり酒屋で燃料を調達した。
ワイン3本、紹興酒1本、老酒1本、バーボンウイスキー1本の計6本。
ずしりと重かったが、足取りは軽かった。
涙に暮れた日は、酒でも飲まなきゃやってらんねェよ。



2012年3月21日水曜日

おっぺすんじゃない!

お国言葉というのはおもしろい。
娘がまだよちよち歩きだったころ、
実家の母は「◇△(娘の名)ちゃん、ここにえんこしゃんして!」
などと言ってそばに座らせ、お菓子なんぞを与えていた。
(エンコシャンというのはいったい……?)
女房の眼はすでに点になっている。
「えんこしゃん=お座りする」という幼児語で、
母親がちっちゃな子に向かっていう言葉だ。

「おい、そんなにおっぺすなよ!」
ボクがこう言ったときも女房の眼は空間に貼りついていた。
(オッペスって何? そういえば近くに越辺(おっぺ)川が流れていたけど……)
「おっぺす=押すこと」で「押し圧(へ)す」がモトの形。おっぺ川とは関係なし。

「川越の言葉って田舎くさいわよね」
女房はそう言ってバカにしたものだが、
なに、小江戸川越の言葉には江戸深川言葉の影響が色濃く残っていて、
いってみれば〝江戸っ子ことば〟といえなくもない。
そこへいくと女房の里は浜松で、いわゆる「だに」とか「だら」の遠州弁。
田舎くさいのはむしろそっちのほうだ。

ふだんは標準語をしゃべっているわが女房も、家の中ではもっぱら浜松弁だ。
「これ、食べるら?」→これ、食べるでしょ?
「皿さら取ってやぁ」→そこのお皿ごと取ってくれない?
「さっき、言ったじゃん」→さっき言ったでしょ
「そういうことを言っちゃいかんだに」→そういうことを言ってはいけません
「そうだら?」→そうでしょ?
「会食だもんで、けっこう食べたに」→会食だったもので、けっこう食べたわ

長くいっしょに暮らしていると、感染してしまうのか、
娘たちも「かしゃん! 夕飯のしたくができたにィ」
などと、台所から仕事部屋に向かって叫んでいる。
ちなみに「かしゃん=お母さん」で、これはわが家の娘たちだけが
使っている嶋中家版幼児ことば。ボクの場合は「とぉしゃん」で、
〝しゃん〟にアクセントがある。

Geordie accentのことを話題にしたら、ついこんな話になってしまった。
でも、方言とかお国訛りって、どこか心が温まる。
みなさん、方言はどんどん使いましょう。その場がきっと和みますから。





2012年3月20日火曜日

ふるさとの訛り懐かし

次女はいま、イギリス北東部を犬のようにほっつき歩いている。
今春の就職を前に、留学時に同級だったドイツ人の友人(女性です)と共に、
ドイツからイギリスへと、優雅な修学旅行をしているのだ。

次女が留学したのはスコットランドにほど近いニューカッスル大学。
ニューカッスルといえばGeordie(ジョーディー)という超難解な訛りで有名だ。
歌手のスティングや「ミスター・ビーン」がGeordie accentで知られ、
そのあまりに理解困難なアクセントゆえに、イギリスではよく笑いのネタにされている。
日本でいう東北方言のズーズー弁(差別語ではございませぬ)といったところか。

イギリスの訛りというとロンドン下町のコックニーcockneyが有名だが、他にも
ウェールズ訛りとかリヴァプール訛りとか、数え切れないほどの訛りがある。
サッカー選手ベッカムのしゃべっているクセのある訛りはエセックス訛りで、
一説には、エセックス訛りがロンドン言葉に影響を与えコックニーに発展して
いったともいわれている。

北へ行くほど訛りがきつくなるというのは、日本と同じで、
ニューカッスル訛りはスコットランド訛りにかなり近いといわれている。
たとえばMonday(月曜日)をムンディー、shit(くそ)をシャイトゥなどと言うそうだ。
また言葉そのものも違っていて、yesがaye(アイー)になってしまう。

イギリス北部はかつてバイキングの襲来に悩まされた地域でもあり、
単語やアクセントにスカンジナビアの言葉が強く影響している。

われわれはイギリス英語というとすぐQueen's Englishを思い浮かべるが、
ロイヤルファミリーのしゃべる英語はこれまた特殊な英語だそうで、
日本における標準語はイギリスではRP(Received Pronunciation容認標準発音)
と呼ばれている。BBCのアナウンサーなどが使う発音がこれで、
訛りのない標準イギリス英語なのだという。

RPはイングランド南東部の教育のある人々の英語発音ということらしいが、
実際に使いこなしているのは国民の3%に過ぎないというのだから、標準語もクソもない。
BBC放送で英語を学んだという外国人が、ロンドンやその他の都市に行っても
さっぱり聴き取れなかったとこぼすのは、たぶんそのためだろう。

次女は米語と英語を使い分けられると生意気を言っているが、
正確には米語のシアトル訛り(高校時代に1年間留学)と英語のニューカッスル訛りを
わずかにしゃべれる、というべきだろう。英語のしゃべくりがさっぱりで、
小江戸訛りの日本語しか話せないボクにとっては、どっちも馬の耳に念仏だ。

今朝は天気がいいので近くの樹林公園に行ってみた。
梅が満開で、桜もようやくつぼみがふくらんできた。
恒例の花見は、来月初めごろになるだろうか。



←イングランド北東部にあるニューカッスル大学。
次女は大学生時代に1年間留学した。





2012年3月19日月曜日

無い物ねだり

友人知人たちの印象を総合すると、ボクは一見、温厚篤実そうに見える(そうだ)。
またフランクに誰とでも話ができる社交家のように思われている(フシがある)。
が、自己診断すると、半分は当たっているが半分は外れている。

子供のころはシャイで内向的で、人見知りの激しい赤面恐怖症の男の子だった。
(↑実は今でも赤面しているのだが、色が黒くてわからないみたいだ)
そんな人間が年積もって40を過ぎるころになると、「人は人、俺は俺」と
開き直ってしまい、他人の評価はあんまり気にしなくなった。

日本では〝率直さ〟は必ずしも美徳とは見なされない。
あんまりズケズケものを言うと、たとえそれが正論であっても、
いや正論であるがゆえに、「あいつはまだまだ青いな」
などと陰口を叩かれる。

ボクにトモダチが少ないのは、時に物言いが率直過ぎるきらいがあるためだろう。
仲の良かったかつての同僚や部下、上司、仲人とも、いまは音信が途絶えている。
理由は分かっている。ボクが先輩や上司に相応の敬意を払い、
いやなところにも目をつぶる、といったオトナの対応をしなかったせいである。

物言いが率直過ぎると、「くちばしが黄色い」とか「人間が練られていない」とか、
さんざんに言われる。練られた人間とはさてどういうものかというと、できるだけ
対立を避け、和合を尊び、たとえ対立しても〝落としどころ〟を探すような人間
のことを言う。いつも泰然としていて、周囲からは「さすがにオトナですな」
と一目も二目も置かれている。

ボクはつむじ曲がりだから〝練られた人間〟というものにあまり信を置かない。
その多くは妥協のなかで生き長らえてきた無気力な人間かも知れないからだ。

ボクにも練られた部分が30%くらいはあるから、時々は相手の気持ちを忖度したり、
メンツを重んじたりもするが、むやみに褒め合ったり、親和を築いたりはしない。
「さすがにオトナですな」と感心されるより、孤独なヤボ天のほうを好むからだ。
人に合わせるのはしんどいし、くたびれる。

たびたび言うけれど、ボクは単純がいちばんだと思っている。
世間様は精神が複雑な人間のほうを上等と見る傾向にあるようだが、
その〝複雑さ〟は単に小利口でずる賢く、処世に長けたすれっからし、
というだけのことかもしれない。

ボクは八っつぁん熊さん的な、喜怒哀楽を無邪気に表現できるような
人間になりたいとずっと思い続けてきた。たぶんひがみ根性だと思うが、
鼻先に才気をぶら下げ、「さすがにオトナですな」と呼ばれるような人間が
きらいなのだ。

わが団地、とりわけわが棟には分別顔した〝オトナ〟たちが、
これでもかというくらい蝟集している。大半はすでに隠居の身だが、
「むかしは偉かったんだぞ」というオーラを全身からふりまいている。
この種の〝むかしは偉かったオジサン〟たちとつき合うのはほんとうに疲れる。

その点、夫人たちの多くはハナから〝複雑さ〟と無縁なところにいるので、
ボクにとってははるかにつき合いやすい。オトコよりオンナ友だちが多いのは、
そのためだろう。もっともすでにオンナを降りちゃった人ばかりで、
若くてきれいな夫人が少ないのがちょっぴり物足りないところだけど、
それは無い物ねだりというものか。

だらだらとわけのわからぬことを書きつらねたが、いったい何が言いたいのか、
自分でもさっぱりわからない。たぶん疲れているのだろう。
やっぱこいつ(俺のことだ)は永遠にオトナになれそうにないや。
お後がよろしいようで。


2012年3月17日土曜日

吉本隆明死す

昨日(3/16)、吉本隆明が死去した。享年87。
20代の半ばから30代にかけ、
解らないまでも必死に読んだのが吉本の本だった。

ボクの学生時代は小林秀雄一色に染められていた、とはすでに書いたが、
サラリーマンになってからはヨシモトリュウメイ一色に染まった。
直属の上司が吉本フリークだったもので、飲めば吉本イズムを吹き込まれ、
次第にその色に染まっていった。

全集を買い込み、その関連本や吉本主宰の同人誌『試行』もせっせと買い集めた。
それだけで本棚はもういっぱいになってしまう。

小林と比較すると、吉本は読みづらかった。硬質な文体はいいのだが、
どっちかというと悪文なのだ。小林のように鋭利な日本刀でスパスパ撫で斬りにする
というのではなく、刃こぼれのあるナタで力まかせにぶっ叩く、という感じで、
およそスマートさには欠けるが、無骨で誠実さのにじみ出た文体だった。


《言ってわからなけりゃ、最後は鉄拳をふるうしかないでしょ》
(そうそう、口でわからなけりゃ、あとは殴っちまうしかないよね)
ボクはよく吉本の金言を勝手に免罪符にさせてもらった。
同人誌『試行』の中には、こうした威勢のいい言葉が乱舞していた。

『擬制の終焉』『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』
『敗北の構造』そして『知の岸辺へ』……晩年はサブカルチャー的な
テーマにも目を向けていたが、傑作といえばやはり前期~中期の評論集が
いちばんだろう。

数多ある著作の中で、何がいちばんオススメかというと、
それはもう『マチウ書試論』と『共同幻想論』に尽きる。
というより『心的現象論序説』や『ハイ・イメージ論』、『言語にとって美とはなにか』
などは、難解すぎて手に負えない。

《ジェジュの肉体というのは決して処女から生まれたものではなく、
マチウ書の作者の造型力から生まれたのだ》(『マチウ書試論』)

キリスト教はユダヤ教の〝剽窃〟にすぎない、とするスリリングな論考は
いっぺんでボクを虜にしてしまった。ジェジュとはイエス・キリストのことで、
マチウ書はマタイ伝のフランス語読みだ。吉本教の信者たちは、
「君はもうマチューショを読んだか」などとやっていたっけ。

この『マチューショ』を読んで以来、キリスト教というものを考える際に、
いっぺん『マチューショ』のフィルターを通してから語るクセがついてしまった。
聖書は誤りのない神の言葉、と信じるガチガチのキリスト教福音派の人たちからすれば、
これはとんでもない悪書であり唾棄すべきもの、ということになる。

しかし少なくともキリスト教について学びたいと思っているもの、
あるいは当のキリスト者たちだっていい、『マチウ書試論』を読まずして
キリスト教を語るなかれ、とあえて言いたい。それくらいの衝撃力はある。

吉本は文章もへただが、しゃべくりもへただった。
繰り返しが多いうえに、しゃべり言葉が明晰さを欠いていた。
若いころ、吃音症だったことが遠因かもしれない。

大手書店には〝吉本追悼コーナー〟ができていると聞く。
文章もテーマも難解だから、その手の本に慣れていない人は
途中で放り出すこと必至だが、『マチウ書試論』だけは
最後まで辛抱強く読み通してほしい。
それだけの価値は十分ある。
倶会一処。


2012年3月15日木曜日

大きな栗の木の下で

野坂昭如さんが脳梗塞で倒れたのは2003年、72歳の時だった。
いつものように朝帰りで、前後不覚になるくらい酔っぱらっていた。
異状に気づいた奥さんが急ぎ救急車を呼んだが、
右半身マヒ、嚥下障害、発声障害等が残ってしまった。

その後リハビリに励んだ甲斐あってか、発語こそ不明瞭ながらラジオに出演したり、
奥方による口述筆記で創作活動を再開したりと、達者なところを見せている。

ボクは若い頃からこの作家がひいきで、小説はもちろんのこと、
エッセイのたぐいはずいぶん読んできた。彼の放つめくるめくような言語世界に、
三島由紀夫と同じくらいの才能のきらめきを感じていたのだ。

月刊誌の編集をしている時、縁あって野坂さんに何度かお会いしたことがある。
気さくな人で、想像していたより立派な体格をしているのに驚いたことがある
ラグビーとかキックボクシングで激しくカラダを鍛えていたころの話である。
でも会う時はいつも酔っぱらっていて、素面のときはほとんどなかった。

一度、深夜に日テレのスタジオまで原稿を受け取りに行ったことがある。
「11PM」というエッチな番組に生出演するから、終わるまで待っててくれというのだ。
「小林君(本名です)、すぐ終わるから、そこで弁当でも食べててくれ」
野坂さんはそう言うと、シースールーをまとった美女たちの中へいそいそと
飛び込んでいった。(いいなあ……)ボクは冷たい仕出し弁当をつつきながら、
裸同然の美女たちが行き交うハーレムのようなスタジオ内で、
猛り狂うムスコを必死になだめすかしていた。
その日、原稿はもらえなかった。

「ゴメンゴメン、ほんとうにゴメン。ちょっと手違いがあってね。
小林君。今週末、駒場のラグビー場で練習してるから、
そこまでご足労願えまいか? 今度こそお渡しするから」
勇んで行くとまたまた肩すかし。酒を飲んだりラグビーする時間はあっても、
原稿を書く時間だけはないようだった。

「ほんとうにゴメン。こんどこそ書き上げるから、次は銀座のクラブ『M』まで……」
こんなことを何度か繰り返し、ようやく原稿にありつくことができた。
〆切などとっくに過ぎている。ウソばかりつく男だが、ふしぎに憎めなかった。

さて深酒の祟りで半身不随になってしまった野坂さんだが、
さすが『エロ事師たち』の作者だけのことはある。言語聴覚士による訓練のさなか、
「野原に大きな木があります。その大きな木の下で、、野坂さんだったら何をしますか?」
と若い女性聴覚士がたずねると、
オ◎☆コ……」
その後の質問にも、終始卑猥な言葉で応じ、
そばで奥方が笑いをかみ殺していたという。

野坂さんは早稲田大学の仏文科を卒業している。
が、周りの作家たちが大学「中退」組ばかりなのに、
「卒業」じゃどうにも恰好がつかないと、あえて「中退」で通しているという。
「そういうダンディズム、洒落っけもあるんですよ」
飲み仲間の村松友視が言っている。

ダンディなエロ爺ィか。
ボクもそう呼ばれたい。





←極端にシャイな男でありました。
でも礼儀正しい愉快な男でもありました


2012年3月11日日曜日

海ゆかば

あれから早や1年。「3.11」という数字は心の墓標になってしまった。

昨日、長女が東銀座の岩手県物産館「いわて銀河プラザ」で「雪っこ」を
買ってきた。酵母や酵素がまだ生きている活性原酒で、ボクの好物でもある。
造っているのは酔仙酒造で、いまは岩手一関で仮営業しているが、
もともとは陸前高田にあった蔵元である。

陸前高田といえば、TVニュースにあの〝奇跡の一本松〟のさびしげな映像が
しばしば流れた。高田松原には樹齢200年以上の松が7万本も植えられていた。
その豊かな松の原が大津波によって根こそぎ倒され、わずか1本だけが残された。

あの日、木造4階建ての酒造所は、押しよせる津波に沈み、壊滅した。
従業員7人の命も奪われた。去年の暮れ、ようやく初出荷にこぎつけた「雪っこ」には、
亡くなった蔵人たちの無念さと、未来に向かう気仙の人々の希望がこめられている。
そんなことを想いながら口に含むと、甘やかな香りとともにやりきれない思いが
こみ上げてきて、鼻の奥がツーンとしてくる。

長女は陸前高田の隣町、大船渡でガレキの撤去に汗を流した。
聞けば陸前高田にも足を運び、哀れな一本松を目にしてきたという。
その酔仙酒造、本拠地だった陸前高田ではなく大船渡に新工場が建てられる。
戻りたくても戻れない。苦渋の決断だったようだ。
「いつか必ず気仙の地に戻ります」
酔仙の社長は高らかにそう明言したという。

「3.11」を境にして、「人生観が変わってしまった」という人は多い。
「生」と「死」の境界がおぼろげになってしまった、というのが大きいのだろうか。

「生者」は「死者」に対してどこか後ろめたい気持ちをもつという。
生きていることは〝たまたま生き残っている〟ということに過ぎず、
それ以上でも以下でもない、ということか。

自分が生きて、いまここにあることに意味などない? すべては「無」?
生きることも死ぬことも、どちらも無意味なのか?
人間、いずれ滅んでいく身であれば、せめて美しく滅んでいきたいと思う。

海ゆかば水漬(みず)く屍(かばね) 山ゆかば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ


本日午後、日比谷公園にて「3・11東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth」
の集まりがあるという。娘2人は集いに参加すべくいそいそと出かけていった。
ああ、在天の霊たちよ、安らかにあれ。
合掌。

2012年3月9日金曜日

鬼の居ぬ間に

本日は亡父の祥月命日。母が死んでから迎える最初の命日だ。
「父さん、あの世で20年ぶりに母さんと再会した感想は? 
ずいぶん待ち遠しかったんじゃないの」
あいにくの雨だったが、そんな思いを胸に墓参りに行ってきた。

実家への手土産はいつもの豆富と油揚げ。
川越駅のほど近くにある「小野食品」がひいきで、
わがブログに軽妙な合いの手を入れてくれる〝なごり雪〟さんの店だ。
上品なボクの口には、この店の豆富と揚げ物しか合わないのだ。
それに、いつも〝オマケ〟をくれるし。←せこい奴!
ボクは何かとオマケに縁がある人間なのである。

実家へ顔出しすると甥っ子の嫁が留守番をしていた。
「今しがたお墓参りに行きましたよ」
兄貴夫婦はかけ違いに寺へ向かったようだ。
「しめしめ……」
鬼の居ぬ間に仏壇にお線香をあげ、さっさと引きあげちまおう。

嫁は笑っていた。ボクと兄貴が犬猿の仲だということをよーく知っている。
(それにしても墓参りとはなァ……少しは人間的なところがあるじゃないの)
ちょっぴり兄貴を見直してやった。でも会えば必ずケンカするので、
君子危うきに近寄らず。あわてて退散してきた。
滞在時間はわずかに3分。

わが兄弟はみな偏屈ぞろい。わずかに姉がまともな部類?に入るが、
ハタから見ると相当おかしい。
「男兄弟なんて、どこも同じ。仲良しなんておりゃせんよ」
周囲のものはそういって慰めてくれるが、仲が悪いより良いに越したことはない。
女房の兄弟の仲良しぶりを見るにつけ、
「やっぱ俺の兄弟は異常だ」と思わざるを得ない。

兄弟と暮らした月日より、女房や隣人知人たちと過ごした日々のほうが
長いんだものね。疎遠になってしまうのも当たり前か。
ま、それでも兄弟は兄弟。縁を切るわけにもいかないので、
なんとかうまくやっていくしかない。

父さん母さん、あの世でも心労が尽きませんね。
そのうち(100年後だけど)、お詫びにうかがいます。
どうか仲良くやっていてください。

2012年3月8日木曜日

インチキ平和主義

古代ギリシャの都市国家(ポリス)は制限選挙だった。
女性や老人、子供には選挙権を与えなかった。
一定の税金を払い、一旦緩急あった時、武器を取ってポリスを
守る意志と能力のある壮丁(そうてい)にしか選挙権を与えなかったのだ。

女に選挙権は要らない》《制限選挙でたくさん
というのが師匠・山本夏彦の持論で、そのことを
著作の中で再三再四書いている。

不肖の弟子である私めも、師匠の意見には大賛成で、
もっといえば自国を守る気概のないものは、男だろうと女だろうと
選挙権は与えるべきではない、と思っている。

「日米同盟があって、いざとなればアメリカが守ってくれるから大丈夫よ」
などと考えているオポチュニストにかぎって、米軍が「トモダチ作戦」
あとから作戦費用68億円の請求書が来たけどね)と称して被災者を支援したりすると、
「やっぱアメリカは頼りになる」とばかりにほだされ、
「米軍のグァム移転費用1000億円くらい気前よく出してやりましょうよ」などと言い出す。
ニッポンは相変わらずアメ公のための金庫番でしかない。

戦後日本は自らの血を流さず、代わりに札びらを切ることで
擬似的な平和を維持してきた。民主主義も平和も血の代償ではなく、
GHQによって自動的に与えられたものなのに、その自覚さえなく、
図々しくもこの平和が未来永劫続くものと信じている。

ボクは再三、こんな平和主義はインチキであり欺瞞だと訴えてきた。
自国の防衛を他国の手にゆだねて平然としていられる精神を
メカケ根性と指弾してきた。しかし多くの国民は、
「平和であるなら囲い者でもいいんじゃない?」
などと情けないことを考えている。

マックのハンバーガーを食べ、スタバのカプチーノなんぞを飲んでいたら、
いつのまにか去勢された「ニセ毛唐」になっていた。
そしてタマ無しになってしまった事実に、いまだ日本人の多くが気づいていない。
〝サムライ日本〟もへちまもない、タマ無しのサムライじゃあ笑うに笑えまい。

1970年11月25日、三島由紀夫は市ヶ谷駐屯地のバルコニーから憲法改正を叫び、
森田必勝ともども自裁して果てた。一方、60年安保時の首相岸信介は終生、
憲法改正を唱えていた。その孫の安倍晋三が政権を取り、
憲法改正を政策のトップに掲げたのは殊勝だが、
これまたあっけなく挫折してしまった。

三島が生きていれば、今年で86歳になる。
いまの〝タマ無しニッポン〟を見たら、
何と思うだろう。


※追記
米軍の「トモダチ作戦」の代償は大きかった、というお話。
トモダチ作戦に68億円を払っただけでなく、当時の民主党・前原外相は
在日米軍の駐留費に毎年1881億円を、向こう5年間にわたって日本が負担する
という「思いやり予算」を決めてしまった。「友情の代償」が1兆円とは……。
何が〝トモダチ〟だ、このインチキ野郎め!

2012年3月6日火曜日

男のエステ

子供の頃の写真を見ると、つい顔をそむけたくなる。
含羞なのか、いつもはにかんだような表情を浮かべているのだが、
どこか分別くさい顔もしていて、何となくいやらしいのである。
たぶん太宰の『人間失格』でも読み、大庭葉蔵に自分を重ねていた時期なのだろう。
まさしく「未熟は罪なるか」を地でいっている。

あれから50年、「美形」は相変わらずだが、さすがに青臭さが消え、
侘びさびた趣きも加わって、自分でも惚れぼれするようないい男になってきた。
これも日頃の精進のたまものと、自画自賛している次第だ。

先日、地下鉄の車内で、隣に座った男がバッグから手鏡を出し、
前髪や眉をいじくりだした。「この非国民野郎め!」と張り倒してやろうかと思ったが、
警察のご厄介になるのも面倒なので、ここはぐっと我慢した。

たびたび理屈っぽいコメントをよこすNICKさんはこの堪忍我慢が大の苦手で、
最後はケンカになって警察のご厄介になる、というのがいつものパターンだ。
先だっては酔ったあげくに暴れ、トラ箱に放り込まれ数日間行方不明になってしまった。
瞬間湯沸かし器みたいにすぐカッカするところは若い頃のボクにそっくりである。
まだまだ人間が未熟なのだ。

男は辺幅を飾らず、などと昔は教えられたものだが、
《人はかたちありさまのすぐれめでたからんこそ、あらまほしかるべけれ》
と、はるかに昔の兼好法師も書きつけているくらいだから、
見てくれはいつの時代にあっても大事であった。

それにしても、男が必要以上に容貌を気にするのはみっともない。
聞けば就活などのためにエステに通ったり、薄化粧をしているもの
まであるらしい。

ボクはいわゆるジャニーズ系と呼ばれるやさ男が大嫌いで、
あの中身のなさそうなアイドル顔を見ていると、一網打尽にして、
裸にひんむきムチで叩いてやりたくなる。←SM趣味か、おまえは?

男は見てくれじゃない。カネのあるなし、学問の深浅も関係ない。
じゃあ何なのさ?
《下戸ならぬこそ、男はよけれ》←やっぱそこへいくか




2012年3月3日土曜日

独立ごっこ

スペインはマドリッドの「サラカイン」という三つ星レストランを取材した時、
「あなたは〝新スペイン料理の旗手〟などと呼ばれていますよね」
とバスク出身のシェフに水を向けたら、途端に不機嫌そうな顔になり、
「そんな軽薄な呼び方はやめてくれ」と叱られてしまった。
「それをいうならバスコ・ナバーラ料理と呼んでほしい」と逆に注文をつけられた。
185センチ、110キロという巨漢。バスク人は総じてお人好しの巨人揃いと聞くが、
ひとたび民族問題に立ち入ると、途端に神経質になる。

バスク独立運動の話は知っておろうが、バスク人はスペイン人と一緒くたに
括られることを殊の外きらう。スペインは人種がモザイク状に入り混じった国。
バルセロナのあるカタルーニャ地方もバスク同様、スペインからの独立を願っている。
サッカーのレアル・マドリッドとFCバルセロナとの戦いを見てくれ。
球場は異様な興奮に包まれる。あれは異民族同士が互いのアイデンティティを賭けて
戦っているからだ。まるで国際試合を見るようである。

日本人が「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」の画一的イメージで括られるのをきらうように、
スペイン人も「闘牛、パエリア、フラメンコ」などとひと括りにされるのを毛嫌いしている。
スペイン人は誰もみなフラメンコを踊っているのだろう、などとつい想像しがちだが、
フラメンコはスペイン南部のアンダルシア地方(ゲルマン系ヴァンダル人の国の意)
の民族舞踊で、もともとはジプシー(ロマ人)の踊りである。

総じてジプシー嫌いのスペイン人は、フラメンコと聞いただけで眉をひそめる。
ノーテンキな日本人はそんなこととはつゆ知らず、
スペイン舞踊=フラメンコだと思いこんでしまっている。
日本人はみな阿波踊りを踊っている、と思われるのと同じである。

一方、イギリスではスコットランドの独立運動が急速に現実味を帯びだしている。
例によって多くの日本人はイギリス人はみな同じと思っているが、
内実は言語も民族も違う国家の連合体である。

いわゆるイングランド人はゲルマン系のアングロ・サクソン人だが、
スコットランドやウェールズはケルト系、すなわち先住民族の側で、
後発のアングロ・サクソンによってその一部は陸地から蹴落とされ、
対岸のフランスに逃れた。ブルターニュ(ブルトン)と呼ばれる地方がそれで、
ケルト系ブルトン人の住みついた場所である。ブルターニュ人は「頑固もの」
が多いといわれるが、たぶんケルトの血だろう。

俳優のショーン・コネリーはイギリス人と呼ばれるのをひどくきらう。
自分は(憎っくき)イングランド人などとは違う、(誇り高き)スコットランド人だ――。
そんな気概があるのか、映画出演料の多くを独立運動の資金に捧げているという。

スコットランド人が独立したがっているのは1960年代に北海油田が発見されたからだ。
いまは石油収入のほとんどすべてをイギリスに持っていかれてしまうが、
独立を果たせば石油輸出国として多くの外貨収入が見込める。
500万の人口を養うには十分、と踏んでいるのだ。
が、それをやられたらイングランド人の顎は確実に干上がってしまう。


余談だが、大英帝国はグレート・ブリテンと呼ばれる。この〝大〟は大日本帝国と同様、
偉大なるの意かと思ったらそうではないらしい。フランスに逃れた小ブリテンから見て、
相対的に大きいから大ブリテンと呼んでいるだけのことらしい。目からウロコである。

それにしても、国連の加盟国が増えたものだ。去年加わった南スーダンを
入れると、今や193ヵ国を数える(発足時は51ヵ国)。
セルビア・モンテネグロがセルビアとモンテネグロに分離したように、
いまや民族自決が大流行で、どこもかしこも独立したがっているように見える。

普天間問題で揺れる沖縄も、もともとは琉球王国という独立国家だった。
ヤマトンチュが無理難題ばかり押しつけると、ウチナンチュが癇癪を起こし、
ついには独立を宣言するかもしれない。

解決法はただ1つ。憲法を改正し、ささやかな核で武装する。
そして米軍にはお引き取りねがい、基地は国軍基地に換わる。
ついでに自前の原潜を沖縄近海に数隻遊弋させておけば、
中国海軍はまず動けなくなるだろう。
これで国民の誇りが取り戻せるのなら安いものだ。


※追記
明治期の日本政府が自らを「日本帝国」と命名したのは、当時一流国だったイギリスが
「グレート・ブリテン」と名乗っていたからだ。これは単にフランスの〝ブリテン〟に比べ
ブリテン島が相対的に大きかったから〝グレート〟といっただけの話で、greatは物理的な
大きさを示すものでしかなかった。ところが日本は「偉大なるブリテン」の意と勘違いしてしまった。
話はまだ続きがある。韓国は1948年に独立を果たした時(アメリカから)、旧宗主国の日本の
名前に倣って「韓民国」としてしまった。二重に勘違いしたというマヌケな話である。