2012年3月11日日曜日

海ゆかば

あれから早や1年。「3.11」という数字は心の墓標になってしまった。

昨日、長女が東銀座の岩手県物産館「いわて銀河プラザ」で「雪っこ」を
買ってきた。酵母や酵素がまだ生きている活性原酒で、ボクの好物でもある。
造っているのは酔仙酒造で、いまは岩手一関で仮営業しているが、
もともとは陸前高田にあった蔵元である。

陸前高田といえば、TVニュースにあの〝奇跡の一本松〟のさびしげな映像が
しばしば流れた。高田松原には樹齢200年以上の松が7万本も植えられていた。
その豊かな松の原が大津波によって根こそぎ倒され、わずか1本だけが残された。

あの日、木造4階建ての酒造所は、押しよせる津波に沈み、壊滅した。
従業員7人の命も奪われた。去年の暮れ、ようやく初出荷にこぎつけた「雪っこ」には、
亡くなった蔵人たちの無念さと、未来に向かう気仙の人々の希望がこめられている。
そんなことを想いながら口に含むと、甘やかな香りとともにやりきれない思いが
こみ上げてきて、鼻の奥がツーンとしてくる。

長女は陸前高田の隣町、大船渡でガレキの撤去に汗を流した。
聞けば陸前高田にも足を運び、哀れな一本松を目にしてきたという。
その酔仙酒造、本拠地だった陸前高田ではなく大船渡に新工場が建てられる。
戻りたくても戻れない。苦渋の決断だったようだ。
「いつか必ず気仙の地に戻ります」
酔仙の社長は高らかにそう明言したという。

「3.11」を境にして、「人生観が変わってしまった」という人は多い。
「生」と「死」の境界がおぼろげになってしまった、というのが大きいのだろうか。

「生者」は「死者」に対してどこか後ろめたい気持ちをもつという。
生きていることは〝たまたま生き残っている〟ということに過ぎず、
それ以上でも以下でもない、ということか。

自分が生きて、いまここにあることに意味などない? すべては「無」?
生きることも死ぬことも、どちらも無意味なのか?
人間、いずれ滅んでいく身であれば、せめて美しく滅んでいきたいと思う。

海ゆかば水漬(みず)く屍(かばね) 山ゆかば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ


本日午後、日比谷公園にて「3・11東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth」
の集まりがあるという。娘2人は集いに参加すべくいそいそと出かけていった。
ああ、在天の霊たちよ、安らかにあれ。
合掌。

2 件のコメント:

Nick's Bar さんのコメント...

ROUさん、

こんにちは。

鎮魂の311ですね。
これはこれでこれからの日本を襲うであろう自然災害への警鐘として、心に刻むべきでしょう。

しかし・・・・
310をお忘れじゃないでしょうか?
10万人以上が「死んだ」のではなく「殺戮」されたのはほんの67年前。

去るもの日々に疎しとはいえ、報道の差があまりにもだったので、ちょっと悲しくなりました。

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

NICK様

もちろん忘れてはいませんよ。
でもほとんどの人は忘れていますね。

プールのロッカー室で、
「今日は何の日か知ってる?」
と友人たちに聞いたところ、
誰も知らなかった。

3/9……おやじと叔父2人の命日
3/10……東京大空襲
3/11……東日本大震災

ボクの頭の中では3点セットに
なっております。