2012年10月30日火曜日

心の避難所

ボクが小中高の12年間、友だちが1人もいなかったと云うと、みな一様に驚く。
「それに、どっちかというといじめられっ子だった」と云うとさらに驚く。
男の子は、友だちがいないだとか、実はいじめられている、などと親には絶対言わない。
子供なりのプライドがあるし、やはり男は弱音を吐けない。

友だちがいない、というのは淋しいものだ。
学校へ行ってもひとりぼっちだし、休み時間にも話し相手がなく、
ひとりで時間をつぶすしかない。体育の授業でサッカーをやっても、
ボールをパスしてくれる者はなく、家に帰っても遊ぶ友だちがいないので、
しかたなく弟を相手にヒマをつぶしていた。弟はさぞ迷惑だっただろう。

最近、いじめによる自殺がしばしば報道されるが、ボクはふしぎに死ぬ気は起きなかった。
たぶん父や母がいたからだろう。逃げ込める場所があると、人間は生きていける。
ボクには緊急避難用のシェルターがあった。そこにはボクのことを大切に思ってくれる
父と母がいた。ボクは避難所の中でかろうじて呼吸をすることができた。

人間社会は生きづらいものだな、と子供心にも思った。コドモの世界も大変だが、
オトナの世界も大変そうだった。そのことは心身ともに疲れ果てて職場から戻ってくる
父や母を見てそう思った。戦後の貧しい時代というのもあっただろう。
生きることは難行苦行そのものだった。

ボクにはシェルターがもう一つあった。活字の世界である。生身の友だちは持てなかったが、
書物の世界に友だちがいっぱいできた。そこにはボクなどとは比べものにならないくらいの
悩みを抱えた人間が無数にうごめいていた。

ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』、ヘッセの『車輪の下』や『デミアン』、
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』、コンスタンの『アドルフ』、
ドストエフスキーの『地下生活者の手記』『罪と罰』『貧しき人々』、
そして漱石の『こころ』、太宰治の『人間失格』、椎名麟三の『重き流れのなかに』……etc

名作と云われるものにハズレはなかった。
よく「どんな本を読んだらいいですか?」と聞かれることがあるが、
日本のものでも世界のものでも「名作」として読み継がれてきたものに〝ハズレ〟はない。
それを片っ端から読めばいい。が、そう言ってもたいていの人は読みはしない。
なかには「あらすじ」だけ追ったお手軽本を読んで澄ましているものもいる。

某大学の大教室で、漱石の『こころ』やドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ人は手を挙げて、
とやったら、ほんの数人がパラパラと手を挙げただけだったという。
こんなすばらしい名作をなぜ読まないのかと聞いたら、「本を買う金がない」と多くが答えた。
ケータイやカラオケ、飲み会に使う金はあっても本を買う金はないのだ。

そういう輩に限って、メル友などといううすっぺらな〝友だちもどき〟に囲まれ、
ひとりになると「淋しい」だとか「真の友がほしい」などと泣き言を並べるのだ。
「友だちは死んだ人に限る」と言ったのは山本夏彦で、その夏彦も死んでしまったが、
ボクはちっとも淋しくなんかない。本の世界には、夏彦君以下、秀雄ちゃんや周平ちゃん、
遼太郎君に正太郎君。淳さんに秀子(女優兼名文家の高峰秀子です)さんと、
死んでしまったが生きている友だちがいっぱいいるからだ。
淋しがっているヒマなどないのである。

さて、「本を読まない学生」というのが、今や当たり前の風潮になっているが、
そもそも「本を読まない学生」という言い方自体が自己矛盾をきたしている。
学生の本分は本を読み思索することで、本を読まない学生などというのは、
料理をしない料理人みたいなもので、本来はあり得ない。
年に最低でも200冊、がんばって300冊。そのくらい読まなければ
「学生」の名がすたるってもんだろう。

これは半分自慢なのだが、ボクは酒代と本代にしか金を使わない。
旅行も行かないし、ゴルフもやらないし、女遊びもしない(トホホ)。
服装なんてまったくかまわないから、いつも同じ恰好をしている。
ハタから見ると無趣味人間の典型みたいに思われようが、
この世に読書以上の趣味があろうとは、とうてい思えないのだ。

自殺してしまった子どもたちの中に、はたして本好きが何人いただろう。
本の中でヴェルテルやハンスと知り合っていたならば、たぶん自殺などしないはずだ。
作中、主人公の多くは死んでしまうが、読者は彼らの苦悩の深刻さに触れ、
自らの苦悩を相対化することができる。
ヴェルテルの悩みの深さに比べれば、自分の悩みなんて、なんとちっぽけなことか、と。
それだけで、「死のう」などという短慮に自然とブレーキがかかる。



11月9日までの2週間は「読書週間」だという。
活字にふれた人間とそうでない人間では、まず面つきがちがう。
藤沢周平の透明感のある顔を見てくれ。
小林秀雄のみごとな皺を見てくれ。
両人とも我欲から解き放たれたすばらしい顔をしている。


こんな顔になるにはどうしたらいいのだ、
と今度はこっちが聞いてみたい。










 

4 件のコメント:

Nick's Bar さんのコメント...

ROUさん、こんにちは。

 友達なんぞいようがいまいが、そんな簡単に死にたいなんぞと思わないものかと。

 小生、友人は多々おりましたが、小学生時代に一度転校を体験し、転校先でかなりのいじめにあったもんです。それでも「死」の文字はボキャブラリーの中にはなかったですね。

 結局、いじめの首謀者と大ゲンカになりまして、双方痛み分けの結果になりましたが、それからはいじめられることもなく、穏便な生活を送ったと記憶しております。

 閑話休題、ROU師のように数多ある書籍を退避壕として意識したことはございませんが、思いもよらぬ思考や嗜好の多くを得たことは間違いありません。生活の中から会得した倫理観とは別のものが脳細胞にしみこんでいったやに思われます。(まぁ、其れも善し悪しなんでしょうが。)

 これからも齢を重ねつつ死者との対話は続くものと思います。だから、そう簡単には死ねません。

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

NICK様

血の気の多い時期に「死」に甘酸っぱい
幻想を抱くことはありますね。

たとえば、華厳の滝から満16歳10ヵ月で
身を投げた藤村操とか。ボクは自分の部屋の壁に「巌頭之感」の大書を貼り、毎日眺めていましたよ。
《五尺の小軀をもってこの大をはからんとす……始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを》
「かっこいいなァ……」
いまでもこの詩は諳んじています。

他にも『二十歳のエチュード』の原口統三とか、高野悦子の『二十歳の原点』、アルチュール・ランボーや富永太郎の早世などにも
影響を受けましたね。全共闘に愛された悦っちゃんの自殺は、結局のところ失恋だったかな。
ボクはそう思いました。

これらはいじめられて死ぬとかいう次元ではなく、どちらかというと耽美的な次元でしょうか。

いずれにしろ、読書は未知の世界を知らしめ、
狭隘な自分の世界に光を注いでくれます。
また精神を強靱にしてくれるという余録もある。

ボクはまず舌戦に強くなり、次いで肉弾戦にも
強くなりました。NICKさんと同じように、
リーダー格をまず殴っちゃう。これがいじめ解消の一番の妙薬です。

勇を鼓して「エイヤー」と殴っちゃえばいいんです。そうすれば一点突破全面展開が可能になる。これはホントの話。ぜひ実践あれ。






言霊脂・胡塞齋 さんのコメント...

小学校時代、「五人組」という勉強も運動も結構できるグループがいて、愚生、そやつらに屋上でボコボコに殴られたことがあります。学校の帰り道、彼奴等が一人になったところへ意趣返しを一人づつ喰らわせ、勝ったり負けたりした後、その五人組がいつしか六人組になっていました。

7月に入塾した中一の男子がどうも学校でいじめに遭っているんじゃないかと感じて、そんな話を9月頃しました。先週、進路相談を兼ねた保護者面談をしたのですが、「この塾に入ってから、急に男らしくなって、先日学校の先生から〇〇君が殴り合いをしたと言われました。それまではやられるだけだったのに・・・先生のお陰様です。」などと、結構魅力的な母親(独身)に艶っぽく言われて、悦に入っております。やっぱり、愚生は「愚かな生き物」のようです。

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

琴タマ七変化様

国士養成塾もなかなか繁盛しているようですな。それに、塾ならぬ熟じゅくのママ達に囲まれ、鼻の下をビローンとのばしているごようす。

禁断の木の実は入れ歯で噛むべからず、ですぞ。お気をつけ遊ばせ。