2012年6月28日木曜日

イテモタロカ

狷介を絵に描いたような哲学者・中島義道が日本という国はなんでこんなにうるさいのか、
と〝騒音文化論〟的なことを折にふれて訴えているが、たしかに日本という国はうるさい。
街には各種騒音や音楽があふれ、国辱ともいえるバラエティ番組を見れば、
お笑い芸人やばかタレどもの下卑た笑い声がスタジオ中にこだましている。

ボクは時々、団地内の友人に誘われて東京ドームへ野球観戦に行くのだが、
あの鉦と太鼓の応援合戦だけは閉口する。彼ら騒音分子を入場禁止にし、
米国大リーグみたいに静かに観戦できないものかと、近頃は痛切に思うのだが、
こんなことを言う人はまれのようで、日本人は騒音に寛容(鈍感?)なんだな、
とつくづく思う。

バレーボールの国際大会なんかを見ていると、観客はみなビニール製の拍子木
みたいなものを両手に持たされ、それをバチバチ叩きながら「ニッポン、ニッポン」
と狂ったように絶叫している。あれも超うるさい。それらを陣頭指揮している男の声が
マイク越しに聞こえるから、テレビ局側の回し者がいて、観客を自在にコントロールして
いるのだろう。この手の騒々しい輩にはラムチョップ、
じゃねェ、空手チョップ(古いね、どうも)を食らわしてやりたくなる。

日本人はなぜいつも、みんなと一緒になって応援するのだろう。
サッカーの試合でもサポーターという応援団がいて、ご苦労なことに、試合中、
ほとんど総立ちで、その場でピョンピョン跳ねながら応援歌をがなり立てている。
♪ オー バモニッポ~ン ニッポン ニッポン ニッポ~ン
ハイ、ハイハイハイ……

バモニッポンの「バモ」っていったい何だよ、と思ったら、
スペイン語のvamos(頑張れ、それ行け)の最後の「s」が省略されているんだとか。
で、ボクは固く誓ったのだ。野球もサッカーも大好きで、ニッポンを応援する熱き
思いだけはだれにも負けないつもりだが、あの応援団の一員にだけは決してなるまいと。

何度も云うけど、ボクは人と群れるのが大きらい。
人と同じことをするのもきらい。そして人から「ああしろ、こうしろ」と
指図されるのが死ぬほどきらいときてる。小学校時代、担任教師から
通信簿に「協調性なし」と書かれ、中学時代は、友だちから「あまのじゃく」
と面と向かって言われた。これは半分自慢でもあるのだが、
ボクは正真正銘の、筋金入りの、世界遺産級のつむじ曲がりなのである。

ああ、それにしても日本はなんという騒音天国なのだろう。
パチンコ屋の店内は殺人的な騒音に満ちあふれているし、選挙にでもなれば、
候補者の「◎◇でございます。あと、あと一歩でございます」という
悲痛な連呼が選挙カーから垂れ流される。逃げ場のないわれわれにとっては
まさに拷問に等しく、候補者に向かって「おっさん、イテモタロカ」と凄みたくもなる。

今日も巣立ちを控えたカラスの親子が、朝からガァガァとやかましい。
バルコニー越しに見えるヒマラヤ杉に巣があって、親鳥がエサを運んでくるたびに
大きく口を開けた子ガラスどもがガァガァと下品な声で啼くのである。

「見た目もかわいくないけど、啼き声もかわいくないよね」
女房もあのしゃがれたバアさんみたいな啼き声には悩まされている。
せめてウグイスみたいにかわいい声で啼いてくれたなら、
カラスに対するいわれなきバッシングも減るだろうに……。
♪ああ、あ~、あの顔で、あの声でェ……
神様のいたずらなのか、だれにも愛されないカラスやヘビ、ゴキブリ。
不憫な生き物たちである。

で、何が云いたいのかというと、毎度のごとく格別なことはなくて、
60肩と原因のわからぬ〝不定愁訴〟の影響だろうが、
ただブツブツと意味のないことをつぶやいては、
深いため息をついている。
むずかしい年頃なのである。




2012年6月26日火曜日

ねんねの巣立ち

次女のN子が今月いっぱいで家を出ていく。
プチ家出ではない、独立だ。
勤め先が横浜のそのまた先で、残業も多い部署なので、
思いきって会社の寮に入ることにしたのだ。

先日、N子は女房と一緒に鍋釜や電化製品など生活用品一式を
買い揃えるべく買い物に出かけた。本人は初の独り住まいということで、
気分が高揚しているのか、終始ご機嫌だったようだ。

そういえば自分が独立したのも大学卒業してすぐだから、同じようなものか。
東京の一人暮らしが新鮮で楽しくて、毎日のようにハメを外していたっけ。
月に一、二度、週末になると川越の実家から〝洗濯オバサン(母親)〟が上京し、
掃除洗濯夕餉の支度と大車輪の活躍で、悠々半日過ごしていった。
「……ったくまあ、なんて臭いだろうね、この部屋は」
などとブツブツ云いながらも、けっこう楽しそうだった。
おそらく息子の汗臭い猿股の匂いなんぞを嗅ぎながら、
錆びつき萎れてしまった母性に活を入れ直していたのだろう。

いつまでも〝ねんね〟と思っていても、巣立つ日は突然やってくる。
親から見れば、子は幼き頃と変わらぬイメージのままで、
「近頃は、生意気なことを云うようになったな」
などと感心しつつも、頭の中には幼稚園児だった頃の無邪気な姿が浮かんでいる。
(もう一度、あの頃に戻りたいな……)
ついおセンチな気分にもなってしまう。

寮の部屋でひとり夕食を作り、ひとり淋しく食事をする。
そんな時、
「やっぱお父さんの作ってくれたご飯は最高だったな。
今、そのことがようやくわかったよ……」
娘はしみじみ父の偉大さを思い知り、さめざめと泣くのだ。

家族の一員が欠けるというのは淋しいものだ。女房も表情には出さぬが、
しばらくは言いしれぬ喪失感に苛まれることだろう。

で、しばらくすると、わけのわからぬ男を連れてきて、
「お父さん、お母さん、わたしたち……結婚します」
などと勝手なことを言い出し、一巻の終わりとなるのだ。

近く、副都心線と東横線は相互に乗り入れ一本に結ばれる。
わが街和光市から横浜まで乗り換えなしで行けるようになる。
和光市から渋谷まで急行で20分だから、横浜までは1時間前後か。
通えぬ距離ではないのだが、出ていく時は出ていってしまう。

親なんて稼業は、むなしい。
でも、思えば十分楽しませてもらった。
ねんねの娘よ、まずはシャカリキになって働け。
「自分探し」だの「生きがい」だのと、余計なことは考えず、
しばらくは文句を云わずに働け。先輩の云うことをよく聞いて働け。
ストイックになって働け。
そこから視えてくるものがきっとある。















2012年6月22日金曜日

反戦詩なんかじゃない

   ああ、弟よ、君を泣く、
   君死にたまふことなかれ。

与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』は反戦詩として知られているが、
山本夏彦は、
反戦詩なんかじゃない。日教組が故意か無知でこれを反戦詩に仕立てたのである
と言っている。

晶子が呼びかけている弟は、2つ下の弟籌三郎(ちゅうざぶろう)で、
当時大阪の歩兵第8聯隊に所属し、旅順攻略に参加していた。
与謝野家は大阪・堺の老舗の和菓子屋で、弟は大事な家の跡継ぎ
(長兄が大学教授になり、次兄は夭折。3男が父宗七の名を継ぐことになった)。
だから、ああ、弟よ、死ぬことはないんだよ。お前は士族じゃない、
堺の商人の子じゃないか、と晶子は呼びかけたのである。

日清日露の戦役まで、一般庶民には戦争は士族がするもの、という認識があった
だから与謝野鉄幹は平気で雑誌『明星』に掲載したし発禁にもならなかった。
《昭和の戦争観とは全く違うのに、わざと誤解して、それが本当として通用する
ように日教組がしたのである。古人は今日の目をもって昨日を論ずるなかれ、
と言っている》(夏彦)

従軍慰安婦問題もそれと同じ。結論から言ってしまえば、軍は強制していないし、
連行もしていない。昭和33年まで公娼は官許だったという事実を忘れてはならない
戦前は貧しかったから娘を売る親がいた。そんな娘たちが女衒や桂庵のたぐいに集められ、
外地へ向かったのである。外地は内地より高給だったから、誘えば行くものがいくらでもいた。

朝鮮半島の娘たち(当時は日本人)も日本人同様貧しく、満州へ北支へ行かないかと誘うと
応募が引きも切らなかった。応募者がいくらでもあるのに強制連行する必要がどこにある。
半島の娘たちは、多額の前渡金と日々の手当を親元へ送った。
東北の貧しい親元へ、身体で稼ぎ送金した日本の娘たちとまったく同じである。

韓国済州島で「自ら慰安婦狩りをした」と吉田清治と称する男が証言したことがあるが、
それがまったくのでたらめであったことは、秦郁彦千葉大教授の『現代史の争点』
(文春文庫)の中で証明されている。まさに「一犬虚に吠ゆれば万犬声を吠ゆ」そのもの。
1人がいいかげんなことを言い出すと、世間はそれを真実と思って広めてしまう。

日本軍は他国の軍隊みたいに売笑婦を現地調達しなかった。
現地に迷惑をかけまいとしたから、というときれいごとに聞こえようが、
それは事実だ。アメリカ軍はどうか。アメリカ本土には腐るほど売笑婦がいるのに
戦地へは連れて行かなかった。ハナから慰安所を作らせ、
現地調達(自由恋愛だ、と彼らは言う)すればいい、という考え方だったからだ。
この考え方が当時はふつうだった。

現に昭和20年9月8日、アメリカ占領軍の第一騎兵師団が焼け野原の銀座に進駐してくるや、
和光や松屋はPXになり、松坂屋はB1~B3まで「オアシス・オブ・ギンザ」という慰安所
にさせられた。ここで400人の大和撫子が表向きダンサーの名で身を売ったのである。

執拗に慰安婦問題を持ち出す韓国なんかもっとひどい
ベトナム戦争時は勇猛なタイガー部隊として恐れられたが、
その勇猛さは残酷さの謂いでもあった。
兵士たちは貪婪な餓狗のように現地女性を強姦し、
多数の混血児を置き去りにした。その数およそ1万人。
日本の兵隊と比べ、いったいどっちが「非人道的」なのか。

どこの国の軍隊も〝下半身問題〟を抱えている。この〝慰安所〟という必要悪がないと、
どの国の兵士も強姦略奪をほしいままにしてしまう。明日をも知れぬ戦場では、
本能のなせる業か(子孫を残さなくてはいけないという本能か)、無性に女を抱きたくなるという。
悲しいかな、それが現実だ。

だから軍隊同士で〝臍下三寸〟は暗黙の了解事項になっているのに、
韓国はことさら天下に公言し、日本の戦争責任問題をまぜかえそうとしている。
軍が民間人に任せて商売をさせ、応募するものがいくらでもいたのに、
なにゆえ強制連行しなくてはいけないのだ。するわけがないではないか。

そもそも「日帝36年」(←韓国人の決まり文句)において、朝鮮は日本だった。
日本政府は李氏朝鮮において公然と行われていた16歳未満の妓生(キーセン)を禁止し、
売買の対象だった奴婢(ぬひ)を廃止している。そして戸籍制度を整備し、
半島全土の法秩序を日本と同じにした。つまり、日本の東京や大阪、
秋田新潟で日本政府が多くの少女を強制連行できないのと同じように、
ソウルでもプサンでもチェジュ島でも強制連行などできるはずがないのだ。

夏彦は言う。
《〝強制連行〟ならソ連が本家で、60万人あまりの日本人兵士をシベリアへ
強制連行して過酷な労働を強い、6万人以上を死なせた。ソ連は詫びたか? 
わが新聞は補償せよというキャンペーンをしたか?》

何度でも言う。
今日の目をもって昨日を論ずるなかれ。


←1950年代までの韓国では、
男の子を産んだ女性は「乳出しチョゴリ」を
着ていた。「私は男の子を産んだんだよ、すごいでしょ?
自慢だったらしい。韓国歴史ドラマではもちろん乳出し
は御法度だ

2012年6月19日火曜日

パトリオットへの道

日本人の海外留学生が激減しているという。
特に男子学生が内向き志向で、
お母ちゃんのオッパイが恋しくて、なかなか離れようとはしない。
代わりに伸びているのが中国人と韓国人学生で、
国の活力の違いがそのまま留学生の数に現れている。

わが家の娘2人は高校2年時に1年間留学している。
娘の従兄弟たちがすでに留学(カナダ、フィンランド)していたため、
「私たちもそのうち留学させられるかも……」
と覚悟だけは早くからできていたようだ。

AFSによって派遣された先は、長女がイタリアで次女がアメリカ
AFSというのは高校留学と異文化交流を促進する非営利団体の
世界的ネットワークで、その活動はボランティアによって支えられている。

だから娘を預かってくれたホストファミリーは両家とも100%ボランティアで、
留学協会からはびた一文ももらっていない。ただでメシを食べさせ、
寝場所を与え、旅行まで連れて行き、家族同然に扱う。だからわが家も、
ささやかなご恩返しとして、AFSの短期留学生を時々預かっている。

第一次世界大戦中、傷病兵の救護輸送に携わったアメリカのボランティア組織
American Field Service(アメリカ野戦奉仕団)の活動が起源とされるAFSは、
すべて非営利で運営され、世界中で4万人以上のボランティアがその活動を支えている。

わがブログへの鋭い突っ込みでお馴染みの胡塞齋氏はこのAFS日本協会の
埼玉支部長で、海外からの留学生からは〝鬼の支部長〟として恐れられている。
なにしろ来日した留学生はむりやり柔道場に連れて行かれ、
有段者の支部長から直々に、ワンハンドバックブリーカーやら脳天逆落としといった
柔道ならぬプロレスの荒技を食らわされるのだからたまらない。
「ニッポン人をなめんなよ!」
鬼の支部長のメッセージはこの一言に尽きる。
実に単純でわかりやすい。

AFSのリターニー(留学経験者)は数多くいるが、有名人といえば胡塞齋氏以外にも、
自民党の川口順子元外相、塩崎恭久元官房長官、旧大蔵省財務官の榊原英資、
同時通訳の鳥飼玖美子、歌手の竹内まりやなどがいる。

留学の目的はそれぞれだろうが、ボクが何より重視するのは異文化体験による
視野の拡大だ。それに外から客観的に日本を眺めるためか、みな愛国者に
なって帰ってくる。胡塞塞氏などは典型的なpatriot(愛国者)で、
To be international , be national〟の精神をそのまま実践している。

高校留学経験者ではないが、コメント常連のNICK氏も愛国者のひとりだ。
大手の鉄鋼商社マンで英語はペラペラ。家族で6年ほどアメリカ東部で過ごしたことがある。
夫人のK子女史はカナダへの高校留学経験があり、TOEICは990の満点。
わが娘(次女)は中学~高校と、個人レッスンながら、このK子夫人に英語の
イロハを徹底的に鍛えられ、おかげで恩師と同じくTOEICは満点、英検1級にも
合格することができた。そんなNICK家では日本語と英語がチャンポンに
なって飛びかっている。実になんとも不思議な家なのである。

洋行帰りが愛国者になる、という傾向は明治の昔からある。
ボクの師匠山本夏彦も、数え16歳で竹林無想庵にむりやり〝拉致〟され、
パリで2年半を過ごす。夏彦のものに偏らない複眼的思考は
おそらく多感な時期のフランス滞在経験がベースになっている。

ボクは年頃の子供を持つ友人たちには、子供を留学させるように
それとなく勧めているが、なかなかウンと言ってはくれない。
「周りにそういう友達がいないみたいでね、肝心の本人が尻込みしちゃってるんだ」
すまなそうな顔して弁解する。何となく分かるような気がする。が、
友だちとお手々つないで留学するわけではない。行くのはあくまで自分ひとりだ。

外国語がしゃべれるようになる、なんてことはほんのオマケみたいなもので、
日本人の憧れる〝国際人〟とは何の関係もない。自慢じゃないがボクなんか、
外国語はからっきししゃべれないが、ガチガチの日本人であるがゆえに、
internationalな人間だと勝手に思っている。

みなさん、1人でも多くの愛国者を育てるために、
お子さんをむりやり外国へおっぽり出しましょう。
あとできっと感謝されますから。


←外国人と交わると、いろいろ教えられる。
世界にはいろんな価値観を持つ人たちが
住んでいるんだな、と認識するだけでも
留学する価値はある。引っ込み思案の
子どもたちも、帰国時にはひと皮剥け、
驚くほど大人になって帰ってくる。
このことはボクが保証します。






2012年6月17日日曜日

負のスパイラル

60肩などというマヌケな老化現象のおかげで、
夜も眠れないほどの痛みに襲われている。
もちろん水泳もキャッチボールもしばらくはお休みだ。

運動せずに食っちゃァ寝ェ、食っちゃァ寝ェしていると、
「ナイシトール」のCMに出てくるメタボッ腹のおっさんみたいに
変わり果てた姿になってしまう。ボクは母親に似て、
油断するとすぐデブになってしまう体質なのだ。

昔はガリガリに痩せていた。高校時代は177センチの身長で、
体重が57キロ。大学時代は身長は変わらず体重がやや増えて63キロ。
あの頃の写真を見ると、全体にほっそりしていて、どこか弱々しい。

体重が目立って増え始めたのは30歳で結婚してからだ。
MAXは89キロまでいき、屈んでも腹がじゃまして靴下が履けなかった。
階段の上り降りをするたびにゼーゼーと荒い息をした。
顔もむくんだようにふくらんで、写真を撮ると前科10犯くらいの
凶悪犯を彷彿させた。

いまはいくぶん痩せたものの、それでも82キロ。
理想体重の70キロまでははるかに遠い道のりだ。
毎日酒を飲み、腹一杯めしを食べ、一日中テレビの前でゴロゴロしていれば、
そう簡単には痩せてくれない。おまけにビールのうまい季節の到来だ。

ハードな運動をやっていた頃はクリスティアーノ・ロナウドみたいに
割れ腹筋が自慢だった。いまはその面影すらなく、
わずかに残る腹筋らしきものも、内臓脂肪の奥深くにお隠れあそばしている。
「オーイ、腹筋ちゃんやーい! たまには顔を出してくれィ!」
呼べど応えず……なんだかとても切ない。

薄着の季節になって、このナイシトールのお腹じゃあ、
おちおち外出もできやしない。
先日、仲のいい奥さんMとすれ違ったら、彼女曰く、
「そのお腹さえなけりゃねェ(笑)……カッコいいのに」
はっきり言われた。ショックである。

なんとかしなけりゃ、と焦るのだが、
60肩でままならず、ついヤケ酒を飲んでしまう。
飲めばまたお腹が出っ張り、その醜さにまたまた絶望し
酒を飲む……←ずっとやってなさい!

クリスティアーノ・ロナウドがどんどん遠くなっていく。






2012年6月14日木曜日

イスラム奇々怪々

チュニジアに端を発したジャスミン革命は、燎原の火のようにアラブ諸国へ燃え移り、
チュニジア、リビア、エジプト、イエメンと、各国の長期独裁政権を倒してきた。
そして今、シリアのアサド政権が内戦状態に陥り、その命脈が尽きようとしている。

アサド政権は軍隊を使い、女といわず子供といわず、市民を虐殺していると報道されている。
アメリカと国連はこれを強く非難するが、中国・ロシアは「アメリカこそ反政府側に武器を援助
しているじゃないか」と反論、アサド政権に攻撃用ヘリなどを貸与しアメリカと対立している。

日本のメディアの報道では米ソ冷戦の再来かという論調だが、事はそれほど単純では
ない。イスラム教といっても一枚岩ではなく、よく知られているのがシーア派とスンニ派の
2大宗派の対立だ。といってもシーア派は少数派で、スンニ派がイスラム教徒全体
(15億7000万人)の約9割を占めている。

スンニ派の代表選手はサウジアラビア(スンニ派のワッハーブ派)で、
シーア派のそれがイランだ。ちなみにサダム・フセイン時代のイラクは、
国民の大半がシーア派であるのに対し、少数派であるスンニ派の
サダム・フセインが権力を掌握していた。

この旧イラクの状況が現在のシリアに似通っている。シリアは人口の約7割がスンニ派で、
そのスンニ派をアラウィ派(13%)のバシャル・アサド政権が強権で抑え込んでいる。
アラウィ派はシーア派の一派だから、つまりは旧イラクとまったく逆の立場になっている。
日本のメディアは、こうしたイスラム教宗派内の対立の構図をわかりやすく説明しないから、
宗教オンチの日本人にはいつまで経ってもアラブのことが分からない。そしてアメリカ寄りの
報道を浴びているうちに、「アサド政権=悪者」というイメージを植え付けられてしまう。

シリアの歴史を遡れば、少数派のアラウィ派は多数派のスンニ派による差別と殺戮に
さらされてきた。その力関係が1970年を境に逆転し、バシャルの父ハフェズ・アサドが
権力を掌握した。スンニ派を力で抑え込んだのである。バシャルが父親から政権を
委譲されたのが2000年。ほぼアラウィ派で固めた軍隊と情報機関、そしてメディアは
アサド体制に忠実で、スンニ派の住民を反体制テロリストと見なしている。彼らの目には、
たとえ女子供であってもスンニ派ムスリム同胞団の仲間としか映らない。

女子供が虐殺された古都ホムズはスンニ派の一大拠点で、アサド政権から見れば
テロの温床と呼ぶべきところだ。自国民を虐殺していると各国は非難するが、
アサドにとっては自国民より前に彼らは政権をおびやかすスンニ派の住民なのだ。
スンニ派はアラウィ派の宿敵で、すなわち反体制のテロリストなのである。

宗教に疎い日本人の目には極悪非道なアサド政権、という印象が濃厚だが、
もしこの政権が崩壊したら、スンニ派のすさまじい報復が始まると、
政権側のアラウィ派は戦々恐々としている。やられる前にやってしまえ。
はた目には異常としか映らない死に物狂いの殺戮は、
そんな不安な心理から発している。

不思議なことに、シリアの最大の敵であるイスラエルは、「いい気味だ」と高みの
見物と思いきや、仇敵のアサド大統領を陰で支えている、というのだから話はややこしい。

シリアでエジプトみたいに革命が起き、イスラム(原理?)主義派であるムスリム同胞団が
選挙で大勝したら、イスラエルは前にも増して敵国に囲まれるという状況になってしまう。
そうなると国家存亡の危機だ。イスラエルとしてはサウジアラビア(スンニ派)とシリア
(アラウィ派=シーア派)の冷戦が続き、互いに牽制し合ってくれたほうが都合がいいのだ。

●サウド王家が支配するサウジアラビア(スンニ派)=アメリカ&NATO&アラブ連盟のお友達
●イラン&シリア(シーア派)=中国&ロシアのお友達+レバノン・ヒズボラ(シーア派)

リビアのカダフィを支えていた中国とアサド政権を支えているロシア。
両国が恐れているのは地中海が〝NATOの海〟になってしまうことだ。
中露の最後のお友だちがイランとシリアになってしまってはまずい。
大事な資源ルート(主に原油)と武器の販売先を確保する意味でも、
この両国を失うことは許されないのだ。

聞けばリビアとシリアはロシアにとって最大の武器輸入国で、
およそ200億ドル相当の武器を買ってくれたという。しかし、
リビアが崩壊し、40億ドル相当の得意先が瞬時に消えてしまった。
残るシリアまで失ってしまったら、ロシアの軍産複合体は危殆に瀕してしまう。
ロシアが必死にアサド政権に肩入れするのはもっともなことなのだ。

シーア派とスンニ派の違いは一言では説明できない。
ましてやボクのような素人にはよく分からない。
両派の和解はたぶん不可能だろう。

2012年6月12日火曜日

風雅な食事

わが家ではカミさんの言葉が絶対で、娘2人も〝カミの声〟として素直に聞き入れる。
「なに、その行儀のわるい食べ方は。米粒がいっぱい残ってるでしょ」
カミさんの叱声が飛ぶと、娘たち(とボク)は慌てて茶碗の米粒を箸でつまむ。
わが家には「米粒を一粒でも残すと目がつぶれる」という古い教えがいまだに生きている。

食前食後の「いただきます」「ごちそうさまでした」は英語などの外国語に翻訳しにくい、
とよくいわれるが、日本のアニメに英語の字幕がつく場合は、「いただきます」は
Thank youとかI'm eatingなどと訳されるという。
『吾輩は猫である』が『I Am a Cat』と訳されるのと同じようなもので、なんだかピンと来ない。

外国でのホームステイ経験のある娘たちに聞いても、食事のたびに祈りを捧げている家は
まれで、一般的には無言で食べ始め、食べ終わっても無言だという。

モンスターペアレントが新聞紙上をにぎわしていた頃、こんな〝事件〟があった。
「給食時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費は
ちゃんと払ってるんだから……」
そう学校に申し入れた母親がいたというのである。

この母親は「いただきます」という感謝の言葉が「学校」に向けたものだと思い込んでいる。
もちろんそれは間違いで、「いただきます」は「あなたの命をいただきます」の意だ。
人は生きるために動植物の殺生を余儀なくされる。われわれを生かすために死んでいって
くれた動植物に対して感謝の気持ちを表す言葉がこの「いただきます」で、キリスト教徒が
神に食事を感謝するのとは性質が異なっている。

米粒は一粒たりとも残さず食べろ、という古来からの教えは、もちろん生産してくれた
農家への感謝の気持ちもあるが、神聖なお米は神からの賜り物、とする古神道的な
価値観が大きい。「給食費を払ってるんだから」とする若い母親の出現は、現代日本人が、
食物に対する感謝の念をいかに失いかけているか、の証左ともいえる。

現在、「いただきます」「ごちそうさまでした」は手を合わせて唱えるだけの簡単なもの
でしかないが、昔(といってもずっとずっと昔だが)はちがった。物の本によれば、
本来は一拝一拍手の後に和歌を詠み、続けて「いただきます」もしくは
「ごちそうさまでした」と唱えるのが作法だったという。まさに風流そのものだが、
なかなかメシにありつけないとなると、せっかちなわが家の家風には馴染みそうにない。

ちなみに食前の和歌は、
たなつもの百(もも)の木草(きぐさ)も天照す日の大神のめぐみえてこそ

食後の和歌は、
朝よひに物くふごとに豊受(とようけ)の神のめぐみを思へ世の人



風雅の道を愛する皆さま、またご用とお急ぎでない方々は、
食前食後にぜひとも和歌を詠んでいただきたい。
たとえ目刺しと香の物だけの簡素な食事であっても、
きっと雅趣に富んだ正餐のように思えるでしょう。





2012年6月10日日曜日

ものいわぬは腹ふくるるわざ

今日は叔母の四十九日忌の法要が秩父札所第12番野坂寺でしめやかに
執り行われた。叔母は去年死んだ母の妹で、晩年は長く病床に臥せっていたが、
詩吟、剣舞と趣味の多彩な明るい女性だった。

母と叔母は仲のいい姉妹で、よく一緒に旅行をした。が、2人の佐渡への
小旅行は最悪だった。例によって万事に粗雑でそそっかしい母が、着いた途端に
スッテンコロリンと激しく転倒。そのまま病院へ担ぎ込まれた。母はとかくケガの
多い女で、入院といえば決まって外科だった。生涯にいったい何度外科医の世話に
なったか。病院にとっては一番のお得意先だった。

かわいそうなのは叔母だ。せっかく楽しみにしていた佐渡観光なのに、
粗忽な姉の看護に付き添わなくてはならない。けっこう重症だったので、
島外への移送はゆるされなかった。結局、丸々1ヶ月、叔母は母に付き添い、
母の隣にしつらえた簡易ベッドで寝起きした。
(いったい私は何しに来たの? )
身内に見放された2人(長兄は母にお灸を据えるため、あえて見舞いにも迎えにも
行かなかったと後に証言)は文字どおりの「島流し」にされてしまった。

そんな疫病神の母()だったが、姉妹は仲が良かった。そのため、
無用のショックを与えてはいけないというので、母の死は固く秘して、
病床の叔母には伝えなかった。本年4月24日、叔母は大好きな姉の死を
知らずにあの世へ旅立っていった。まるで姉の影に惹かれるみたいに……。
知らせないことがよかったのかどうか、それはわからない。
が、ボクはこれでよかったと思っている。

叔母の葬儀のようすはブログ内の「弔電粉砕!」でやや戯画化して描いた。
まさか従兄弟の施主が読んでいようとは思わないから、思いきり葬儀を茶化したら、
今日、法事の後の粗餐の席(←おまえが言うな)で、施主の奥方がツツと寄ってきて、
ボクにそっと耳打ち。
「ブログ……読んでますよ、フフ」
というなり、謎めいた含み笑い。
ドッキーン!
ボクはしばし全身が硬直。あわてて笑顔でごまかしたが、
なんとかその場を取り繕うので精一杯だった。
まさに冷汗三斗の思いとはこのことだ。

いやあ、きょうの坊さんの法話はすばらしかった。心に滲みました。←わざとらしいんだよ!
結婚披露宴みたいに次々と繰り出されるスピーチ(これも秩父流か?)も、
それぞれに生きるヒントを示唆してくれそうなものばかり。
感動で胸が熱くなりました。←半分寝てたくせに

というわけで、叔母の法要もぶじに済み、めでたしめでたし。←バカ、めでたいは禁句だろ!
施主夫人のM代さん! ふつつかな私ですが、どうかお手やわらかにね。
T夫ちゃん、M代さん、今日はほんとうにお疲れさま。
粗餐(←まだ言ってる)、おいしかったです。腹へってたから……(笑)。



2012年6月8日金曜日

暑い夏

団地内に懇意にしてもらっているOさんという老夫婦がいる。
二人の年齢を足すとおよそ180歳。まだまだ元気だが、
転倒したり軽い肺炎に罹ったりで、何かと病院通いが欠かせない。
で、ヘルパーのお世話になっているのだが、ときどきボクも買い物
の代行をやったりしている。

お二人は大正教養主義の洗礼を受けた最後の生き残りみたいな存在で、
その篤学の精神にはほんとうに頭が下がる。齢90を超えても
向学心は少しも衰えを見せないのである。

ロシアの貴婦人のような白皙の奥方は、世が世なら五千石の大身旗本のお姫様。
祖父は若き日の田山花袋や島崎藤村の世話をし、樋口一葉とも交流のあった戸川残花で、
伯母の達子は勝海舟の孫と結婚している。

江戸の屋敷だったところは築地の「新喜楽」(芥川賞・直木賞の選考が行われる場所として
知られる。吉兆、金田中と並ぶ日本三大料亭のひとつ)がある場所で、維新後は接収されて
大隈重信邸となり、伊藤博文や井上馨などが入りびたり〝築地の梁山泊〟などと呼ばれた。

Oさんには娘が2人いたが、下の娘を10年前に亡くしてしまった。
母親似の超のつく美人で、ボクたち夫婦とも仲が良かったのだが、
突然の発病でこの世を去ってしまった。
二人の嘆きようは言葉に言い表せないほどのものだった。
子が親に先立つ逆縁がどれほど切なく絶望的なものか、
悲しみを必死にこらえるOさん夫妻を間近に見て、ボクは心底思い知った。

愛娘を失ったOさん夫妻の余生は、まるで抜け殻みたいだ。
手当たり次第本を読みあさっているのは、たぶん悲しみから逃れたいがためだろう。
そんなOさん夫妻にボクは2冊の本を薦めたいのだが、言い出しかねている。
タイトルは『「平穏死」のすすめ』と『大往生したけりゃ医療とかかわるな』だ。

前者は去年、母が幽明界をさまよっている時に読んだ本で、
どうやったら美しく死ねるかが書いてある。後者は「医者よ、薬よ、病院よ」と、
大騒ぎなどせず、老いに寄り添い、病に連れ添う。年寄りが楽に生きる王道は
それしかない、と説く。2冊とも、とてもいい本である。
でもタイトルがタイトルだけに、お年寄りに薦めるのがむつかしい。

父も母も、病院のベッドの上で、鼻といわず口といわず、身体中に管をつけられ、
点滴と酸素吸入、経管栄養でむりやり生かされていた。
延命治療はしないでくれと一札入れたにもかかわらず、
自然の摂理に逆行するような医療行為が平然と行われている。

病院に見舞えば誰でも気づくことだが、日本の終末期医療の現場はちょっと変なのだ。
そこには〝死に時〟を逸し、だらだらと生かされ続けている悲惨な老人たちの群れが
病床にうごめいているばかりで、人間の尊厳なんてものは脇に置かれてしまっている。
死にたくとも死なせてくれない。自然死を阻もうとする医療現場――どこかが決定的に
まちがっている。

今月はブラックフォーマルの出番が続く。
亡母の一周忌と叔母の七十七日忌があるのだ。
母にはかわいそうな死なせ方をしてしまったという負い目がある。
それは口には出さぬが兄弟が等しく感じているもので、
思い出すたびに後悔の念にさいなまれる。



今年の夏も暑くなりそうだ。



2012年6月6日水曜日

暮夜ひそかに(『田口護のSPコーヒー大全』)

わが家の冷凍冷蔵庫の中にはコーヒー豆がいっぱい詰まっている。
全国各地の名店から取り寄せたものもあれば、自分で焙いたものもある。
とにかくコーヒーが切れると、女房ともども禁断症状が出てくるのだから、
コーヒー中毒も相当年季が入ってきた。

ボクは自著も含めコーヒー関連の本をいっぱい書いてきた。主たる関心は
コーヒーに憑かれた人間たちにあって、コーヒーそのものではないのだが、
一般にはコーヒーに相当うるさい人間みたいに思われていて、いささか困惑している。
ボクの知識なんて帰山人氏の結成した〝TKY48〟というオタッキーなユニットに比べれば
子供だましみたいなもので、「くるくるぱー度」は彼らの足元にも及ばない。

くるくるぱー度を上げるためには、必死こいて自家焙煎に挑まなくてはならない。
コーヒーは自分で焙いてなんぼの世界で、焙かぬことには何事も始まらない。
フライパンでも手網でも何でもいい。とにかく自分の手で浅煎りから深煎りまで
ひととおり焙いてみる。するとコーヒー生豆の色が刻々と変化し、大きくふくらんで
いく様を目の当たりにすることになる。ここが迷宮への入口、1丁目1番地である。

どこで煎り止めるかは結局好みの問題だ。ボクは「中深煎り~深煎り」好みだから、
ついつい2ハゼまでもっていってしまう。だから浅煎りをよしとするゲイシャ種
(中国語ではもろ「藝妓」という当て字だった)はどうも苦手だ。

自分で焙煎すると、だんだん自信らしきものがついてきて「俺のコーヒーはひょっとすると……」
などと夜郎自大的な錯覚におそわれることがよくある。そうなると、たとえ教科書代わりに
田口護の珈琲大全』を熟読玩味していたとしても、そのことは固く秘して、
読んだなどというそぶりはケほども見せない。自尊心がじゃまをするからである。

ウンウン、わかるなァ、その気持ち(笑)。自家焙煎を志す人間は妙に誇り高いのだ。
実際、『大全』のカスタマーレビューは3件しかない。増刷に次ぐ増刷で、今は
8刷り目だか9刷り目に入っていて、中国語版も出ているという超ベストセラーなのに、
レビューがたったの3件。このことは〝田口本〟がいかに密やかに、人知れず、
人目を避けてこっそりと読まれているかの証左といえる。沽券に関わるから
「愛読してま~す」なんて口が裂けても言えないのだ。

その続編とも云うべき『田口護のスペシャルティコーヒー大全』も売れゆき好調で、
いま第3弾の準備も進んでいる。それなのに、レビューはたったの2件。たぶんライバルたち
も暮夜ひそかに赤線なんぞを引っぱって「フム、なるほど、なるほど」とやっている
にちがいないのだが、そんなそぶりはおくびにも出さない。その気持ち、実によくわかる。
「レビュー? ふざけんな! そんなもん死んでも書いてやるかよ!」

田口氏は台湾や中国、韓国へ行くとアイドル並みのサイン攻めにあう。
彼の地のコーヒー業界では、今や〝神様〟みたいな存在なのだ。
そんな生き神さまの書いた第2弾が、台湾版の『おスペ大全』となってお披露目された。
題して『田口護的精品咖啡大全』。
スペシャルティコーヒーって、中国語では「精品咖啡」というらしい。
本づくりをお手伝いした清貧なるボクの名も、後ろのほうにひっそりと載っていた。
「工作人員」と書いてあった。なんだか非情なスパイになったような気分だ。


2012年6月4日月曜日

女はメンスの期間分だけ長生きする

オンナは月経に支配され、オトコは月給に支配される――
長谷川如是閑先生はうまいことを言う。

さてオトコが一生の間に作り出す精子の数は累計で約1兆個以上。
一方、オンナが産み落とす卵の数はおよそ400個だという。←ニワトリか!

アンネの周期には28日型とか30日型とかがあるらしいが一定せず、
医学的には25~38日くらいの幅があるという。

仮に初潮12歳、閉経期を50歳(どちらも日本人の平均数値)とすると
38年間、30日型として1回につき5日間とすれば、年に2ヵ月がまるまる生理中
ということになる。38年間では6年と4ヵ月。個体差があるとはいえ、
一生のうち6~7年は〝お月様〟の訪問中という計算になる

自慢じゃないが、ボクなんか幼少時から慢性的なしぶりっ腹で、
1日に5~6回(多い日は10回)は便所に行く。その排便時間を累計すると、
とてつもない数字になるにちがいない。
「あなたの人生の半分はトイレの中ね」
便秘症の女房は半分羨ましげにそう言って小バカにする。
これじゃ〝借りぐらし〟ならぬ〝厠ぐらし〟の糞ジジイだ。

ま、そのことは措いといて、オトコはつくづく考える。「オンナの人は大変だなァ」と。
人生のうちの6~7年も月のものに悩まされているのだから……。

ところがボクの敬愛する西沢爽さんの〝珍説〟にかかるとこうなる。
爽さんは考えた。
男女の平均寿命の差は、そのままメンスの期間と一致するのでは?)

日本人の平均寿命はオンナが86.39歳でオトコが79.64歳(2010年度統計)。
その差は6.75歳だ。つまり「メンスの期間分だけオンナが長生きしているのでは?」
というのが〝西沢珍学説〟である。

西沢曰く、
《女の長寿の根源は実はメンスにありという結論に到達するまで、
オレは寝食を忘れてひたすら研究に没頭した》←ご苦労さま(笑)

ボクはこの珍説にふれた時、雷に打たれたような衝撃を受けた。←大袈裟だろ!
科学的なことはサッパリだが、実に説得力のある〝学説〟だからだ。

で、ついでにもう一つ言うと、(日本人の)65歳以上の人々の半分以上が、
人生を終える前に痴呆症に陥る、という統計がある。さらに云えば、
人生のいちばん最後の5年7ヵ月は介護されたまま死んでいく、というのだ。

悲しいけれど、これが日本人の平均的な人生の終わり方だ。
世界一の長寿国と褒めそやされても、現実はこんなもの。
オムツを着けたままの長寿では、めでたさも中くらいなり……ってとこか。


お口直しにボクの好きな曲を聴いてください。
Sittin' On The Dock Of The Bay
日本のCharのギターもいいよ。





2012年6月1日金曜日

もののふの国⇔もののけの国

「女の子も広く社会の動きに関心をもたなくちゃね……」
こどもの頃からの躾のおかげか、わが家の娘たちは実に丹念に新聞を読む。
とはいっても、そこは女で、政治経済の話になると途端に興味を失うようで、
ボクが尖閣や竹島問題、憲法改正の話なんぞを口にすると、あからさまに
「われ関せず」モードに入ってしまう。この無関心ぶりはわが家の娘に限ったものなのか、
それともオンナ一般にいえることなのか、にわかに判断しかねるが、
「ややこしい問題はオトコ衆に任せておけばいいや」という一種の甘えが
あるような気がしてならない。

ほんの数十年前までは、「憲法改正」を口にするだけで〝右翼〟のレッテルを貼られ、
うさんくさい目で見られた。いや、いまでも大して変わっていないだろう。
特に女性は今にも戦争が起きるのではないか、というような不安そうな顔をしてボクを
見つめる。この人、危険分子かも――視線にかすかな侮蔑と戸惑いの色が感じられる。

大宝律令の時代から、日本人にはなぜか憲法は不磨の大典だとする意識があるようで、
現行憲法はマッカーサーとその下僚たちがわずか1週間で考えたもので、
なかんず戦争放棄を謳った憲法第9条はアメリカの植民地だったフィリピン憲法の
コピーにすぎないのだよ、といくら口を酸っぱくして言っても聞く耳を持たない。

アメリカ人が1週間でこさえたもの以上の知恵が出ない、というのなら別だが、
もしそうでないのなら、日本人自身の手で憲法を作り直しましょうよ、
となぜ言えないのか。たとえそれが現行憲法とそっくり同じ中身になってしまっても
かまわない。とにかくみんなで知恵を出し合って世界に冠たる日本国憲法を作ろう、
と言葉を尽くすのだが疑心暗鬼。裏がありそうだと容易に信じてもらえない。

朝日毎日新聞を読み、知らぬうちにメカケ根性を植えつけられてしまった人たちには、
この当たり前の理屈がわからないのだ。自分たちが戦後以来ずっと米国のお妾さんである、
という自覚すらない。骨の髄まで飼い馴らされてしまっているのである。

マッカーサーは日本国憲法は日本人が作ったものだ、と強弁しているが、
ウソっぱちである。なぜウソなのかというと、占領軍が被占領国の憲法などを
作ってはならないとする国際法に違反し、そのことをマッカーサー自身が深く
自覚しているからである。現にドイツは「憲法は俺たちが作る」と国際法を楯に
一歩も譲らなかった。

憲法で戦争放棄を謳っているのだから戦争なんて起こりっこない、ってか?
ならば憲法で地震も津波も台風も来るな、と謳えば自然災害が起こらないのか。
まさかそこまでオメデタイ国民だとは思いたくないが、戦争がいやだというのなら、
なおのこと戦争の備えをしておかなければならない。

孫子も言っている。戦争が起きるのは、あるいは戦争へと追いやられるのは、
かねてからの備えが十分でないからだ、と。永世中立国のスイスは国民皆兵だし、
スウェーデンは重武装国家である。だからヒトラーもノルウェー、デンマークには
軍を進めたが、スイスとスウェーデンは巧みに避けた。

支那が空母を持った、さあ大変だ、とおバカな連中は震え上がっているようだが、
戦前の日本を思い起こしてほしい。当時の日本は航空母艦を10隻以上持っていた。
今から60年以上も前に、空母を10隻も持って機動部隊を編成できたのは日本と
アメリカだけだ。しかも6000キロもの大行軍作戦をやりハワイ攻撃を敢行した。
事の正否は別にして、これはとてつもない実力なのである。

日本は今でこそ空母を持たないが、支那と事を構えたとしても負けることはない、
と米軍は見ている。日本の空軍力は圧倒的で、訓練時間も質も支那とは違う。
海軍力にしたってロシアの中古を改良した空母一隻ぐらいではタスクフォースには
なり得ないのだ。

かつて支那と尖閣問題でもめた時、「軍隊を出すぞ」とのあっちの脅しに、
「やれるもんならやってみろ。こっちだって出すぞ」と安倍元首相は屈しなかった。
支那はそこで黙ってしまった。支那に対してはどんなことがあっても引いては
いけないのだ。そのへんのことが、ケンカ慣れしていない民主党政権にはわからない。
だからいくらでも譲歩してしまう。1歩引けば、やつらは2歩3歩と攻めてくる。

自分の国は自分で守る。
その気概を示せない国は他国から侮られる、と肝に銘ずべし。
日本は町人国家などではない、
「もののふの国」なのだ。