2013年7月13日土曜日

文字に目方があった頃

時代小説を読んでいると、時間の流れが現代とずいぶん違うことに気づかされる。
移動はほとんど徒歩だし、通信手段は飛脚を使っての書状のやりとりしかない。
飛脚にもいろんなランクがあって、料金が最低の「並便り」となると江戸から京阪まで
片道30日かかった。最速の「定飛脚」は4~6日で走破したというが、料金はおよそ4両。
女中の給金が年1両2分くらいだったというから、その高額ぶりが想像できよう。

それだけに、遠方から書状をもらった時の感激は尋常一様ではない。
小説の中では、まず発信されたとおぼしき方角に向かって拝礼し、
次いで神棚に捧げ、伏し拝むシーンが出てきたりする。

《辰平は不覚にも文字が霞んで見えなくなった。
瞼が熱くなり、涙が零れそうになった》(『居眠り磐根江戸双紙31 更衣ノ鷹』より)

こっちも思わず感情移入してしまい、鼻の奥がツンとしてくる。
いったん巻き戻した書状を、何度も披いてはジッと見入って感激を新たにする。
当時の手紙に書かれた文字には、現代とは比べものにならないくらいの重みと価値
があっただろうと推察される。

翻って現在、通信手段は飛躍的な進歩を見せている。
外国を旅行しても自宅とケータイで連絡し合えるし、
スカイプを使えばパソコン上で地球の裏側の人間と顔を見ながら話ができる。
江戸時代の人間が、この最先端技術を目の当たりにしたら、
驚きのあまり卒倒し、そのまま昇天してしまうかもしれない
(現代人のボクだって目を回してるくらいだものね)。

20年以上前は、通信手段といえば電話やFAXが主だった。
ボクの書斎は女房と共用だが、終日、仕事の電話が鳴りっぱなしだった。
今はどうか。電話などほとんどかかってこない。仕事の打ち合わせは
ほとんどメールで済ませているからだ。そのせいか、たまに受話器が鳴ると
一瞬緊張する。まるで電話に恐れおののいた新入社員の頃みたいである。

「メールですか? やりませんね。パソコンが苦手なもので……」
たまに〝テレフォン派〟が生き残っていたりすると、化石を見るような思いがする。
「ケータイは持ってません」
とボクが言った時、相手が見せるかすかな戸惑いと同種のものだろう。

水茎(みずくき)の跡もうるわしき手紙をしたためていた時代と、
鵞毛(がもう)のような言葉が電波に乗って宙を舞っている時代。

前者の言葉には、恐らく石片に刻みつけたような「目方」があっただろう。
そして言葉の一つ一つに力があった。言葉は言霊(ことだま)そのものだった。

今さら飛脚の時代に戻りたいとは思わないが、
言葉が符丁のように宙に舞う時代が生きやすいとは限るまい。
言葉が軽い分だけ、人と人との関係も鵞毛のように軽いからだ。
それが現代といってしまえばそれまでだが、言葉に目方があった時代のほうが、
人間は正直でちょっぴり神に近かったような気がする。

時代小説を読む愉しみ?
「人間が無垢だった時代に一瞬なりとも戻れるから」
と答えたら、ちょっとカッコつけすぎだろうか。

昨日から女房と長女は四国・愛媛を旅行している。
今日は大洲へ行く予定、と先ほどメールが入ったばかりだ。
顔文字ばかりのメールをプリントアウトして神棚に捧げる気にはならない。
メールの文字がわずかに霞んで見えるのは、たぶん老化のせいだろう。


←飛脚の走る速度は時速約8キロ。
ちなみに箱根駅伝の走者はおよそ20キロだ。

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