2014年4月13日日曜日

木の芽時には死を想う

桜吹雪が舞う団地内の公園に立ったとき、良寛の辞世の歌がふと頭に浮かんだ。
   
    
  散る桜 残る桜も 散る桜

似たような詩歌を仏教思想家・毎田周一が詠んでいる。


なくなった人を悼むものも
またなくなってゆく
笑うものも 怒るものも
やがて跡形もない   (「早春の微風」より抜粋)


この世を悲観するひとは
自分でこうと決めるひと
このままでよいではないか
そして面白いではないか

人生観などもたぬがいい
与えられたままを生きよう
苦しみもそして楽しみも
ただそれを味わい尽くして

若いのに死ぬひともあり
長生して死ぬひともある
それが与えられた生命だ
どちらもよいではないか

悠々と山のように一生を
そのままに生きてゆこう
そして死ぬ時には死んで
こせこせするのはよそう   (「山のように」より)


ひとかどの人間だと思うから 自由になれないのです
この世のやくざ 大やくざ
人間の世界の屑であることに 目覚めるとき――
私は闊然(かつぜん)として自由です   (「やくざの歌」より抜粋)


こんなに簡単な そして
ただ一つのことを
それがわからないで
人がみな苦労している

それはどういうことか
つまり それというのは
自分が馬鹿だってこと
これがその一つのこと

自分を利口だと
思っていればこそ
みんながみんなこんなにも
苦労しているのだ

それこそは御苦労なことだ
そして恨みようもないこと
愚一片(ぐいっぺん)の ああ
無限の明るさ――     (「人の苦労」より)


唯一の真理は無常     (「真理」より)



身のまわりで親しかった人が次々と亡くなってゆく。
それも突然に。
昨日まで軽口をたたき合っていた仲なのに、きょうはもういないのだ。
無常迅速〟という言葉が今さらながら胸に滲む。
      
     散る桜 残る桜も 散る桜

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