2014年9月10日水曜日

ユニクロ大好きおじさん

全米テニス準決勝、「錦織圭vsノバク・ジョコビッチ」は壮絶な戦いだった。
別名〝ユニクロ対決〟とも呼ばれたように、この2人がユニクロのブランドイメージを一気に
押し上げてくれたのは確かだろう。ユニクロ愛好者としてはまことに慶賀に堪えない。

ボクはユニクロがまだ海の物とも山の物ともつかない時代からの愛好者だった。
こう言うといかにも先見の明があったかのように聞こえようが、
何のことはない。要はカネがなくてユニクロしか買えなかった、というだけの話だ。

昔は「なんだユニクロか」と言われた。そこにはいくぶん蔑みの響きがあった。
「あっ、貧乏人の行く店ね……」
言葉にせずとも、そんな含みが感じられた。

ボクは靴以外は靴下、パンツ(下着です)、ズボン(今でいうパンツです)、
上着(Tシャツやフリースジャケットなど)、帽子とすべてがユニクロ。
昔はジーパンなどはリーバイスかエドウィンと決めていたのだが、
今はほとんどユニクロ製だ。伸縮性がいいから、とてもはきやすいのである。
ボクみたいなスレンダーな身体(←「虚偽報告!」の声も。だんだん朝日に似てきたか)には、
ユニクロのスキニーフィットジーンズがよく似合うのだ(勝手に言ってなさい!)。

ボクがもっとも軽蔑し、憐れみさえ覚えるのは、いわゆる「ブランド人間」だ。
バッグはエルメスやシャネルにヴィトンで、靴はフェラガモと超高級ブランド品を
身にまとい、これ見よがしに見せびらかす。韓国や韓国人を形容する言葉に
外華内貧」という流行り言葉があるが、まさにそれで、外見を飾れば飾るほど
内面の貧寒さ、心の空虚さが映し出されてくる。

ボクはユニクロの〝ブランド人間〟だが、全身をユニクロで固め、
「どうだ、すごいだろ」と自慢する気にはならない(←だれも畏れ入らないよ)。
そのうちユニクロブランドがシャネルやエルメスと拮抗するようになる
かもしれないが、どうせそこまでは生きられまい。

虚栄物欲を捨て去るのはほんとうにむつかしい。
人間は例外なく煩悩のくびきからは逃れられないようにできていて、
禅語で言うところの「本来無一物」という境地にはなかなか到達できない。

しかし質素を本(もと)とし、一瞬であっても虚栄虚飾を排することができれば、
すがすがしい風が心の中に吹きわたっていくのではないか。

ここでボクの敬愛する〝えんぴつ無頼〟竹中労の小文を引用させてもらう。
まるでボクの現在の心境を歌ったものではないか、と思えるからだ。

《フリーのもの書きになってから、
およそ四半世紀の日々を、
追い立てられるように私は生きてきた。
過去に一刻の安息もなく、
未来に向かって一文の貯えもなく、
六十の坂(原文は五十の坂)を越えてしまったのである。
嘆いているのではない。
〝三文文士〟の人生はかくあるものかと、
いっそ私は爽快なのだ……》

これって、貧乏人のひがみなんでしょうかね。
それとも開き直りか(笑)。

でもね、名利や財貨なんてものは所詮塵芥(ちりあくた)に過ぎず、
死んでしまえばすべてがパーです。
近頃は歳のせいか、そんなことばかり考えてしまうのです。
ニヒっているのでしょうかねェ(笑)。

マタイ伝福音書第6章にはこうあります。
汝ら己がために宝は天に積め』と。



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