2015年3月30日月曜日

リリパットの国へようこそ

昨日、石神井の区民センターで、AFSの留学生歓迎パーティーがあった。
いよいよ今期の外国人留学生との対面の日である。
AFS練馬支部へ配属された留学生(16~17歳の高校生)は全部で3名。
デンマークのヴィクターとチェコのトマーシュ、そしてマレーシアのアシュレー(♀)だ。
プラハ出身のトマーシュは、8月半ばから半年間、わが家に居候することになっている。

ヴィクターとトマーシュは雲を突くような大男。トマーシュは事前に186㎝と聞かされて
いたが、実際は190㎝あるらしい。リリパット(小人)の国の住人に無用の恐怖心を
与えないようにと〝過少申告〟しておいたらしい。
How much do you weigh ? (体重はどのくらいあるの?)と訊いたら、
70キロくらいですとの答え。なんだかこれも怪しいが、80キロは優にあるボクは、
一瞬(勝ったな……)と思ったが、そんなところにしか優越感を持てない自分が
ひどく哀しかった(バカ)。

3人とも英語は実に達者で、
(おれなんか10年以上やったのに、満足に話せやしない……)
と、毎度のことながら自責の念にさいなまれる。読めるんだけどしゃべれない、
という大方の日本人が抱える悩みはかなり深刻だ。

幸い英会話に馴れている娘2人が応援に駆けつけてくれたため、
コミュニケーションは十分図れたが、この娘たちがふだんは同居していない
と知った途端、トマーシュの顔はさっと曇った。英語をほとんどしゃべれない
老夫婦とどうやって生活していったらいいんだろ、と不安に思ったのだろう。
その戸惑いを隠せない顔がけっこう面白かった。

トマーシュの気持ちを察したのか、長女が、
「安心して。時々、顔を見せてやっから」
と言うと、ようやく笑顔が戻った。世話の焼けるヤツである(どっちだよ!)。

一方、すでに来日し、今年の7月に帰国するトルコのゼイネップ()も会場にいた
ものだから、いろいろ話してみた。すっかり日本語も上達して、将来は作家に
なりたい、なんて言っていた。帰国するまでまだ間があるから、一度わが家に
遊びにおいでと誘ったら、目を輝かせていた。若い人はこの純粋さがいい。
大人になると妙に擦れっからしになってしまい、若い頃の純な気持ちをつい忘れがちに
なってしまうが、彼ら留学生と会っていると、そのまっすぐな気持ちが身のうちに蘇ってくる。

次なるイベントで再会を約したボクたちは会場をあとにして、一路和光市の樹林公園へ。
毎年恒例の花見である。朝早くに起きたボクたちは、おにぎりを作り、卵を焼き、
鶏を唐揚げにし、サラダを作った。幸いお花見日和で、人出もすごい。そういえば去年は、
長女の留学時代の同級生(イタリア人2人)が来日し、いっしょに弁当を作ってこの公園に
繰り出したものだが、今年も公園の賑わいは相変わらず。ただ桜はまだ八分咲きだ。




←わが家の女3匹と樹林公園へ。
ちょっぴり花冷えのする1日だった





2015年3月25日水曜日

白人たちよ、君らはそんなに偉いのか?

長い人類史の中で、白人がヘゲモニーを握り、人間の中では白人が最も優秀で
高等なのだ、とでっかいツラをし、アジア・アフリカ諸国民を未開の野蛮人と見下す
ようになったのは、たかだか近・現代の300~400年にすぎない。

かのモンテスキューも『法の精神』の中に、
黒人は人間たりえない。なぜなら黄金よりガラス玉を喜ぶからだ
などと大まじめに書いている。彼ら白人に言わせると、黒人奴隷などは
せいぜい〝言葉をしゃべる家畜〟のようなものなのだろう。

日本人に対してはどうか。ロシアのゴンチャロフは『日本渡航記』の中で、
《(日本人は)溌剌とした眼差し、大胆な表情、旺盛な好奇心など欧州人が
意識的に持っているものを何も持っていない》
などと書いている。

英国首相チャーチルとの間で、日米開戦を密約したF・ルーズベルト米国大統領は
激しい人種差別主義者で、日本人嫌いでも有名だった。当時のアメリカでは、
「日本人は文明人が持つべき羞恥心がない。異様な人種だ」というのが定説で、
ルーズベルトはその説を裏づけるべくスミソニアン研究所に調査を依頼した。
結果、彼は「日本人は2000年遅れた野蛮人種」と結論づけたのである。

昭和20年8月6日、広島に原爆が投下されたその日、
カナダ首相のマッケンジー・キングは日記に、
原爆がヨーロッパの白人にではなく日本人に対して使われることになってよかった
と書いている。

プロゴルファーのタイガー・ウッズはこんなことを言っている。
「人種は? と訊かれたら人間と答える。ボクはCABLINASIANです」
この「CABLINASIAN」というのは、
CA=Caucasian=白人種
BL=Black=黒人種
IN=Indian=アメリカ先住民
ASIAN=アジア人種
を足した彼の造語で、実際は、1/4黒人、1/4タイ人、1/4中国人、1/8白人、
1/8アメリカ先住民の他人種混血だそうである。
しかし現実は、ただのBlack Manの一人に数えられてしまう。

最後に織田信長のエピソード。
ある時、バテレンたちがご機嫌取りに黒人奴隷を信長公に献上した。
信長は世にも珍しき〝黒い人〟を見て興味津々。さっそく家来に言いつけて
たらいに水を張り、ゴシゴシと洗わせたという。ところがいくらこすっても
黒い肌の色が落ちることはなかった。信長は、
(世界にはこういう人間もいるんだな)と納得し、
その後は森蘭丸などと同じ〝近習(きんじゅう〟の一人として召し抱え、
「ヤスケ」という日本名をつけて連れ歩いたという。
黒人を〝禽獣〟としか見なさなかった白人たちと比べ、
なんと精神が高々として純粋であることか。

ついでに日本人の高貴さを表すエピソードをもう一つ。
1919年(大正8年)、第1次世界大戦の戦後処理を決める
ベルサイユ講和会議において、日本は世界に先駆け
人種差別撤廃規約」を提案した。その理念は、
あらゆる人種は平等である。人は人種によって差別されない」
というものであった。

採決をとったら、日本の提案に賛成が11ヵ国、反対が5ヵ国だった。
すわ、賛成多数で決まるかと思いきや、議長役のウィルソン米国大統領は、
「事が重大なので、全員一致でないかぎりは否決されたものとする」
とし、国際社会に初めて提案された〝人種平等〟の主張は葬られてしまった。
日本代表の牧野伸顕は、
「各案件の採決は多数決が原則だったではないか」
と執拗に抗議したが、ついに覆ることはなかった。

米国では、激しい人種差別を受けていた当の黒人たちが、
日本の提案に期待を寄せていたが、賛成多数であったにもかかわらず、
自国ウィルソン大統領の議長裁定によって法案が葬り去られたことに怒り、
全米各地で黒人暴動が発生したという。


おい、傲岸不遜な白人どもよ、
君らはそんなに偉いのかよ?


←このネオナチ風のバカっぽいあんちゃんは、
人類の祖先が黒人で、その黒人が5000年かけて
白人になった、という科学的事実を知らないんだろうな。
もっというと黒人の劣性遺伝、つまりアルビノ
(色素欠乏症、通称白子)が白人種なわけ。
なに? White Pride(白人の誇り)だって?
白い生焼けのふにゃふにゃパンがそんなに旨いのかよ。
白人至上主義だか何だか知らないけど、
いきがってばかりいないで、
少しは科学と歴史を勉強するこった。















2015年3月17日火曜日

「社会の窓」あいてますよ

見知らぬ人に、いきなり、
「社会の窓、あいてますよ」
と言われたら、あなたどうしますか?

東京人は概ね、あわててファスナーを引っ張り上げ、御礼の言葉もそこそこに
その場を立ち去るのだそうです。ボクも何度か経験がありますが、ひたすら恐縮し、
照れ笑いでその場を取りつくろう、というくらいが精一杯でした。
その点では、生真面目な東京人の感性に近いようです。

生粋の大阪人の場合はどうでしょう。
「ズボンのチャックあいてますよ」
と言われると、彼らは慌てることなくむしろ堂々と、
開けてんねん。風通してんねん
などと言い返すらしいです。指摘したほうも負けじと、
「風邪引くから、はよ閉めや」
などと応じるといいますから、すでに立派な掛け合いになっています。

「寝癖ついとるよ」
と言われると、
「アンテナ立ててんねん」
と言い返す大阪人というのは、実に何と言いましょうか、
サービス精神の権化とでもいうべきなのでしょうか、
われら関東人とはまるで異質の人種のように思えます。

ボクは仕事で数え切れないくらい大阪に出張しましたが、
あの厚かましくてコテコテの大阪人気質には最後までなじめませんでした。
大阪人の落語や漫才もいっこうに笑えなかったのです。

でも、「風通してんねん、文句ないやろ!」という、開き直ってまで笑いを
取ろうとする貪欲で強靱な精神にはただただ感服してしまいます。
あの巧まざるユーモア精神さえあれば、逆境を瞬時にプラスに変えてしまう
のではないでしょうか。おそるべし大阪人!そして愛すべし大阪人!

「社会の窓が開いてますよ」を英語では Your fly is open.といいます。
この場合のflyとは蝿ではなくズボンの前チャックのことです。

元イギリス首相のウィンストン・チャーチル卿にもこんなエピソードがあります。
演説するため貴賓席で出番を待っていた78歳のチャーチルが、側近から1枚の
紙切れをそっと手渡されます。鷹揚に受けとったチャーチルが開くと、そこには、
「閣下、畏れながら〝社会の窓〟が開いておられます」と書かれてありました。
チャーチルは少しも慌てず、その紙切れの端にこう書きつけ側近に返したそうです。
Never fear , Dead birds do not fall out of their nests.
(心配しなさんな、死んだ鳥は巣から転げ落ちたりはせんよ
チャーチルには大阪人の血が流れていたのかもしれません。

チャーチルには他にこんなエピソードもあります。
アスター子爵夫人ナンシーとの会話で、夫人が
「ウィンストン、もし私があなたの妻だったら、あなたのコーヒーに毒を入れますわ」
チャーチル、応えて曰わく。
「ナンシー、もしあなたが私の妻だったら、私は喜んでそれを飲むでしょうな」

イギリス人は何よりユーモアを大事にするといいます
どんなに立派な大学を出て、どんなに世間的な名声があろうとも、
ユーモア精神の欠如した人間はまったく評価されません。ユーモアは深い教養から
発せられるもので、人間の厚み・奥行き、余裕の象徴でもありますから、
ただ生真面目でユーモアのかけらもない日本の政治家みたいな人種は
薄っぺらで無教養な人間と見なされてしまうのです。

どこの大学を出た、などという「教育」のあるなしなどどうでもよろしい。
問題は「教養」の深浅なのです。
わが師匠・山本夏彦も言ってます。
まじめな話を真顔でするのは失礼だ。常に笑いを帯びなければならない




←dead birdsとはすごい言い方だな、
と感心しつつ、わが逸物をしばし眺めやる。
ウーン……もうとっくに死んどる

2015年3月11日水曜日

亡き父母(ちちはは)のお導き

9日は亡父の祥月命日。毎年墓参りは欠かさないが、今年はちょうど23回忌に当たるので、
兄弟全員が集まり、簡単な食事会をしようということになった。姉の発案である。

男兄弟3人は正直、仲があまりよくない。原因はよく分からないが、次男坊の私は
兄と弟の性格に少し問題があるのではないか、と勝手に思っている。兄は弟2人を
出来損ないのロクデナシと思っているし、私は兄と弟のことをアンポンタンと思っている。
また末っ子の弟は上の兄2人を度し難い〝くるくるぱー〟と思っているのだから、
もうどうしようもない。この3人をなんとかつなぎとめているのが紅一点の姉だ。
姉は絵に描いたようなお節介おばさんだが、心根が底抜けにやさしく、
それなりに皆から慕われている。

兄弟仲はホメられたものじゃないが、それぞれの嫁さんたちとはうまくいっている。
特に実家の嫂(あによめ)には心から感謝している。母のことを死ぬまで面倒見てくれて、
兄弟が実家に帰れば、いやな顔ひとつ見せず歓待してくれる。なかなかできることじゃない。
兄は出来損ないのコンコンチキだが、すばらしい嫁さんをもらったという一点だけは
評価できる。私も同じようなことをいわれているから、実によくわかるのだ(笑)。

23回忌というが、私は「年忌」などというものを少しも信じてはいない。
坊主丸儲け」にも書いたが、年忌の実体は、バラモン教や儒教、そして神道などとの
チャンポンで、仏教とは何の関係もないのだ。

日本人の信仰心というのは非論理的といわれる。もっとも宗教そのものが論理的では
ないのだが、それなりの勝手な理屈はつけてある。戦後、GHQが日本人の意識調査を
実施して、その結果に驚いたことがある。日本人は進化論を認めていながら、
天皇が〝現人神(あらひとがみ)〟であると信じていたからだ。

そんな例だったらいくらでもある。たとえば人間は死んだらどこへ行くのか。
「天国にいるお父さんが見守ってくれている……」
日本人はよくこんなふうに言う。しかし天国というのはキリスト教の考え方であって、
神に許されたキリスト教徒の人間だけが行くところだ。ならば「極楽浄土」かというと、
そういうわけでもない。あれは阿弥陀如来の浄土のことであって、如来それぞれの
浄土は異なるのである。たとえば薬師如来の浄土は「薬師瑠璃光浄土」というところだが、
大日如来の浄土は何と呼ぶのか知らない。

いずれにしろ浄土へ行けるのは〝南無阿弥陀仏〟と念仏を唱える人たちだけで、
天台宗の私などは浄土へ行けないかもしれないし、ひょっとすると入れてもらえる
かもしれない。また〝南無妙法蓮華経〟と題目を唱える日蓮宗の宗徒は、
これまた死ぬとどこへ行くのかさっぱりわからない。いかんせん行って帰ってきた人が
いないので、実態がよく分からないし、日本人はあまり深く考えることもしないのだ。

いい加減といえばいい加減で、時には「13日の金曜日」は不吉だ、なんて言ったりする。
あるいは仏滅とか大安を気にしたりもする。現に6月に挙式を迎える私の娘も、仏滅は
避け大安吉日を選んでいる。ホンモノの仏教徒だったら、仏滅などは信じないはずだ。
あれはどっちかというと「陰陽道(おんみょうどう」の考えに近いもので、仏教とはまるで
関係ないのである。「仏」という字が入っているが、昔は「物滅」と書いたもので、
仏陀(お釈迦さま)が入滅した日という意ではない。近年になってたまたま「仏」という字が
当てられただけなのだ。だから、こうした迷信・俗信はまったく気にする必要はないのである。

この日、兄弟仲はなぜかとてもよかった。兄は相変わらず口がわるく、
人をけなすことで笑いを取るという、もっとも拙劣なるユーモア精神を発揮していたが、
私はいつものように完全無視を決め込んだ。弟とは十数年ぶりに口をきいた。
数十年ぶりに笑顔も見た。
(へーえ、こいつも笑うことがあるんだ……)
実に何とも奇妙な兄弟である。

この場の雰囲気を和らげていたのは、実家の2歳児だった。
甥っ子の長女で、実に可愛いらしい。最初はふだん見たことのないおじさんやおばさんが
いきなり顔を出したので、いくぶん怯え警戒心を露わにしていたが、30分ほど観察して、
人畜無害の人間だと分かったらしく、いつもの地なのか、歌ったり踊ったりと、
狂ったようにハシャギまくった。そこにまっ黒のフレンチブルドッグの「イクラちゃん」が
加わったものだから、もう上よ下よの大騒ぎ。リビングルームは爆笑の渦に包まれた。

Hちゃんと不細工な顔のイクラちゃん、アリガトね。
Hちゃんとイクラのおかげで、兄弟同士、久しぶりに笑い合うことができました。
兄と弟は「アホ・ボケ・カス」の三拍子揃ったアンポンタンと思っていたけど、
あれでも血の通った人間なのだ、ということが分かって、ホッとしましたよ。
これからはできるだけ仲良くつき合っていけたらいいな、と心より願っています。
あ~あ、男ってやつはほんとうにバカだねえ。




←天使のような天然パーマのHちゃん。
ズレたサングラスがよく似合ってるよ。












※追記
3.11 読売新聞で紹介されていた詩を転載させていただく。

タイトルは『最後だとわかっていたなら


2015年3月7日土曜日

座して死を待つよりは……

1995年8月15日、戦後50周年の記念式典に際して、
耄碌(もうろく)じいさんが残した「村山談話」では〝侵略〟という文言が使われている。
が、1941年12月8日の天皇陛下による「開戦の詔勅」にはこうあった。
《米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を加え、
ついに経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う…(中略)
帝国の存立、まさに危殆(きたい)に瀕(ひん)せり……帝国は今や、自存自衛のため
蹶然(けつぜん)起(た)って、いっさいの障碍を破砕(はさい)するの外なきなり》

つまり、当時の国家意志はあくまで〝自存自衛〟であった。
開戦に先立ってアメリカでは「排日移民法」が可決。日本人移民がシャットアウトされた。
これに倣ってオーストラリアも白豪主義の立場から同調。カナダとニュージーランドも
日本人移民を拒否した。当時の日本は人口過剰で、しかもこの上なく貧乏だった。
白人諸国への移民の道が閉ざされることで、満州がいよいよ日本の生命線となった。
そしてダメを押すかのように、アメリカは仏印、中国大陸からの全面撤退と
日独伊三国同盟の破棄を求める「ハル・ノート」を突きつけてくる。

日本は絶体絶命のピンチに立たされた。「座して死を待つよりは戦って死ぬべし」
といった気運が生まれたのも当然のことだろう。東京裁判(実体は裁判という名の狂言だった
でただ1人日本の無罪を主張した(フランス代表のベルナール判事も、実は日本の無罪を一貫して
主張していた、ということを最近知りました)インドのラダ・ビノード・パール判事は、
ハル・ノート」のようなものを突きつけられたら、
モナコやルクセンブルクのような小国でも、
(ほこ)をとってアメリカに立ち向かうだろう
と述べたことはあまりにも有名だ。

パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)では、「侵略は悪」とされている。
しかしその「侵略」の定義は、「当事国の自国裁量権に任せる」とあり、
自衛の戦争はその限りではない、としてある。つまり、戦争にはその当事国同士に
それぞれの言い分があって、侵略戦争と言えば侵略戦争だし、自衛戦争と言えば
自衛戦争になってしまう。したがってイラクに攻め入ったアメリカは、自分たちの戦争を
「侵略戦争」と認めていないし、朝鮮戦争の口火を切った北朝鮮も「侵略戦争」とは
一言もいってない。

♪ああ、それなのに、それなのに……1993年、時の細川護熙首相は
《日本は侵略戦争をした》などと愚かな発言をしてしまうのである。

1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交合同委員会において、
連合国軍最高司令官のマッカーサー将軍は、
ピッケンルーパー上院議員の質問に答えてこう言っている。
《日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。
彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、スズがなく、ゴムがなく、
その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、
アジア海域に存在していたのです……》

《……これらの供給が断たれた場合には、日本では1000万人から1200万人の
失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた
目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです

太字のところの原文は以下のとおり。
Their purpose , therefore , in going to war 
was largely dictated by security.
朝鮮戦争(1950・6~)で指揮を執ったマッカーサーは、北朝鮮や中国と戦う中で、
日本という国が置かれた地政学的な困難さについて理解を深めたといわれている。
結果、大東亜戦争は《日本の自存自衛のための戦争だった》と明確に認めたのである。

私はこの「マッカーサー証言」を全国津々浦々の小中学校、高校等で教えるべき
だと思っている。日本は今もなお「侵略国家」の汚名を着せられ、巨額の賠償金を
むしり取られた。あの戦争が侵略戦争でなければ、支払う必要のない金であった。

「勝てば官軍」というが、いかな敗戦国民でも明らかに間違った
歴史認識を植えつけられるいわれはない。少なくとも自分たちだけは、
やむにやまれず蟷螂の斧を怒らし欧米列強の横暴に立ち向かったのだ、
という誇りと気概を保持していたい。

戦後70周年に当たって、支那や韓国は執拗に〝歴史戦争〟を仕掛けてくるだろう。
俗に「ウソも100回言えば真実になる」といわれている。支那人や朝鮮人が得意の
嘘八百である。そのウソを断固はね返し、歴史戦争に勝ち抜かなくてはならない。
非業の死を遂げた英霊たちのためにも、日本国の名誉を断固守らなくてはならない。
それが先人たちのおかげで平和を享受している我われの、せめてもの務めであろう。
がんばれニッポン!





←誰が呼んだか〝愛しのマック〟ことダグラス・マッカーサー将軍


2015年3月4日水曜日

たそがれおやじの横浜散歩

アル中ぎみのおじさん4匹で横浜を散策してきた。
和光市駅から横浜中華街駅までは副都心線1本で行ける。
急行でわずかに1時間。車内でおしゃべりしているうちに着いてしまう。
途中、日吉で母校KO大学を遠望したが、何の感慨もおこらなかった。

11:30に横浜・中華街着。相変わらずキンキラキンの趣味の悪さが目立つ。
支那人というのは赤色と金色がお好きなようで、街中が成金趣味の巣窟みたい
な様相を呈している。色に関しては日本人と支那人&朝鮮人はまったく趣味が
異なっていて、おそらく彼らは死んでも〝わび・さび〟なんて理解できないだろう。

まあ、そんなことはどうでもいい。
われらが目的は小籠包をつまみながら酒を飲むこと。
それも上等な紹興酒を浴びるほど飲むことだ。

案の定、〝toriaezuビール〟を飲み干したあとは、
紹興酒の瓶がどんどん空になっていった。
どいつもこいつもウワバミみたいに底が抜けているから、
いくらでも入ってしまう。これでは勘定の際に酔ってではなく、
請求額の大きさに目をまわし腰を抜かしてしまうだろう。

というわけで、ひとまず潮風に吹かれて頭を冷やそうと、山下公園に向かった。
この公園には氷川丸が繋留されている。氷川丸は1930年~1960年まで就航した
貨客船で、北太平洋航路(アメリカ・シアトル港まで)を往復した。戦時中は日本海軍
に徴用され病院船に、そして戦後は引き揚げ船として活躍した。3度機雷にふれたが
奇跡的に生還、戦後、北太平洋航路に復帰したが、昭和35年に除籍され、
博物館船として山下公園に繋留されることになった。

横浜に住む次女にこの逸話を話してやったら、
「へーえ、そうなんだ。まったく知らなかった」と驚いていた。
次女は高校2年の時にアメリカへ留学し、西海岸のシアトルでホームステイした。

そのホストファミリー夫妻が、6月に予定している次女の結婚式に
わざわざ駆けつけてくれる。
「式の前に山下公園を案内して氷川丸とシアトルとの深い関わりについて
話してあげようかな……」
と次女。それはよい考えかもしれないな。
ホストファミリーのPhilとTeresaはきっと感激するんじゃないかしら。

氷川丸を見上げながらそんな感慨にふけっていたら、すっかり酔いも冷めてしまった。
「和光に帰って飲みなおそうか?」
誰からともなく、そんな提案が出たので、
4匹のおじさんは、帰宅ラッシュの前に横浜を脱出することにした。

地元に帰ってきたら、さっそく某飲み屋へ。仲間内では〝ゲロゲロ酒場〟と呼んでいる
店なのだが、なかなかどうして、つまみなどは気が利いたものが出てくる。
そこではホッピーをゲロゲロになるまで飲み、酔余の勢いで「河岸を変えようぜ!」
ということになり、またまたハシゴすることになった。

さすがに3軒目は遠慮した。他の3匹はおぼつかない足もとながら、
何やら奇声を発しつつネオン街に消えていった。やれやれ。

それにしてもよく飲んだな。この4匹のおじさんは、そもそも適正酒量というものを
知らないのだから、ただただ呆れるばかり。あとで奥方たちにこっぴどく叱られるのは
目に見えている。♪ああ、それなのに、それなのに、チョイト……
持ったが病なんでしょうね、バカは死ななきゃ治らない、のであります。





←潮風に吹かれながら老後の生き方について
しみじみ考える酔っぱらいのおじさん。
(ああ、俺の人生っていったい……)
後方に見えるのは横浜ランドマークタワー




2015年3月1日日曜日

迷える仔羊は餓狼のエサにしよう

イスラム過激派の手で日本人人質2人が無惨にも殺された事件に関して、
1匹と99匹の羊」の話がしばしば引用されている。手元にある『新約』のマタイ伝や
ルカ伝にはこうある。
《汝らいかに思うか。100匹の羊を持てる人あらんに、もしその1匹迷わば、
99匹を山に残しおき、行きて迷えるものを尋ねぬか。もしこれを見出さば、
まことに汝らに告ぐ。迷わぬ99匹に勝りてこの1匹を喜ばん。かくのごとく、
この小さき者の1人亡ぶるは、天にいます汝らの父の御心にあらず》(マタイ伝第18章)

つまり、羊飼いは99匹の羊を残してでも迷える1匹の羊を探しに行かなくてはならない、
それが神の御心に叶った行為なのですよ、とイエスは言っている。「民間軍事会社経営」
と名乗る湯川某を救うべく、フリージャーナリストの後藤健二氏は、勇躍シリアへ
乗り込んでいった。後藤氏はプロテスタント系「日本基督教団」の熱心な信者で、
さながら迷える仔羊(湯川氏)を助け出さなくてはいけない、と強い使命感に衝き動かされ
たにちがいない。

ボクはこうした熱き信仰心と義侠心を否定するつもりはないが、
ただ血気にはやるだけの〝匹夫の勇〟は迷惑千万なんだよな
と内心思っている。「何が起こっても責任は私自身にあります」と潔いことを言ったけど、
結果的には国政をマヒさせ、国益を大きく損なってしまった。最期まで見苦しいマネをせず、
従容(しょうよう)と死んでいった後藤氏を「武士道精神の誉れ」などと持ち上げるムキもあるが、
あれだけ迷惑をかけといて、武士道精神のホマレはないでしょ。
なにとち狂ったこと言ってんだよ、とボヤきたくもなる。

ダッカ日航機ハイジャック事件(1977)では、時の福田赳夫総理は、
1人の命は地球より重い》という〝迷文句〟を残し、テロ集団・日本赤軍に対し、
身代金600万ドルを支払い、獄中メンバーの引き渡しにも応じてしまった。
とうとうテロリストと取引してしまったのだ。

一方、今回の安倍総理の対応はどうだったか。
裏でどんな取引があったか知らないが、阿倍は迷える仔羊1匹を犠牲にし、
残りの99匹を救うことを選んだ。つまり「心情倫理」より政治家の取るべき
「責任倫理」を選択したのである。

安倍総理の苦渋の決断に対して、例のごとく朝日新聞を初めとする進歩的文化人や
左翼反日メディアは「国家は自国民を保護する義務がある」などときびしく非難した。
しかしねえ、この海には人喰い鮫がウヨウヨしてるよと再三警告しているのに、
進んで飛び込んでしまう輩(やから)をシャカリキになって守ってやる必要があるのかね。

その後、杉本某とかいう目立ちがり屋のフリーカメラマンがシリアへ渡航しようとして
外務省から旅券を強制的に取りあげられてしまった。シリア行きを阻止されたこの男は、
憲法21条の「表現の自由」と同22条の「居住・移転の自由」に抵触するではないか、
とメディアの前で咆えまくった。まったく、どいつもこいつも、人の迷惑も顧みず、
勝手な理屈をほざきやがって……。

ボクは思うのだ。朝日の愛読者や進歩的文化人を気取るお調子者たち、
それに人道主義や平和主義を掲げる民主党や社民党などの坊ちゃん・嬢ちゃんは、
きっと得意の正義を振りかざし、
「99匹を犠牲にしてでも迷える1匹を救い出そうとする」だろうと。
ああ、なんと気高くも美しい精神なのだろう!

北朝鮮を「地上の楽園」と持ちあげ、中国には「ハエが一匹もいない」とヨイショしていた
朝日のシンパなら、そうした甘っちょろい「非政治的な決断」を下してしまうのではないか。
ボクはそのことを心底憂えている。
迷える1匹の仔羊を救い出そうとするのは文学や宗教の世界であって、
非情なる政治の世界とは次元が違うのである。

何度でも言う。
朝日の社説と反対のことをやっていれば日本の平和と安全は保てる》と。
現に戦後70年間、そうやって日本の安寧は保たれてきた。これは歴史的事実である。
そしてまたこの事実は、もはや〝不変の真理〟ではないのか、
と不肖私めは愚考するのであります。




←イエスの言いたいことは分かるんだけどねぇ