2015年8月30日日曜日

オジサンがオバサンになる時

先日、ラジオに出演した。といっても団地内の小さなラジオ局で、
自治会・放送委員のTさんから、
「嶋中さんは団地の中にも友だちがいっぱいいらっしゃる。会社をリタイアしたおじさん
たちに向けて、友だちの作り方の極意みたいなものをご披露いただけませんか?」
と依頼されたもので、快くOKした。

Tさんはだいぶ買いかぶっているが、ボクは格別友だちが多いわけではない。
ただし知り合いはいっぱいいる。friend(友だち)とacquaintance(知り合い)は
違うのである。

ボクの友だちは飲んべえばかりで、人はいいが、ほとんどみなロクデナシ野郎
といっていい(←おまえが一番だろ!)。知り合いはオバサンかオバアサンが多く、
オジサンとオジイサンは意識的に避けている。特に会社をリタイアしたばかりの彼らは、
気むずかしい人が多く、話すのがめんどうだから、こっちからはできるだけ近づかない
ようにしているのだ。

司馬遼太郎のエッセイ『風塵抄2』の中に「窓を閉めた顔」という小文がある。
司馬は言う。中国人の顔はリラックスしていて、どなたもご自由にお入りください、
というように「顔の窓」が開いているが、日本人はそうじゃない。いつだって窓や
シャッターが閉められていて、概ね気むずかしそうな仏頂面をしている、と……。

ボクはまずこの話を引用し、団地内のオジサンやオジイサンも同じように「顔の窓」
を閉め切っている、というような話から切り出した。それでは友だちも知り合いも
できませんよと。

ボクは長らく〝主夫〟を兼業しているので、ダイコンやネギをぶら下げたまま、
よく知り合いのオバサンたちと立ち話をする。最初はぎこちなかったが、30年も
やっているとすっかり板につき、今やすっかりオバサンになっている。

ボクはラジオで、
オジサンはすべからくオバサン化すべし
と訴えた。ボクの細胞はたぶん80%くらいはオバサン化していて、
そのうち完全に性転換できそうなあんばいなのだが、友だち作りの要諦は、
まさにこの「オバサン化」なのである。

〝社畜〟として長く会社に飼い慣らされてしまうと、定年となってリタイアしても、
自分の住む町の地域社会になかなか溶け込めない。同僚以外とは話したことが
ないから、隣家の奥さんともまともに口がきけない人が多いのだ。つまりは社会性
がまるでない。つぶしがきかないから、ただ仏頂面をするしかない。リタイア後の
オジサンは実に扱いにくいのである。

原因はいろいろあるが、学歴だの履歴だのといった輝かしい過去の栄光が
ジャマしている場合が多い。どこそこの大学を出ただとか、一流企業の部長職に
あっただとか、そんな経歴は裸一貫になってしまったオジサンには何の関係もない。
むしろそれが足枷となって、フランクな人間関係を築けない。

かつては部下を数十人抱え、億単位の商談をまとめたこともあるだろう。
社の内外で〝切れ者〟と噂されたこともあったかもしれない。
でもね、隠居生活の中で、そのことがいったい何の役に立つっていうの? 

ボクは彼らのことを「むかし偉かったオジサン」と半ばからかい気味に
呼んでいるのだけれど、そういう誇り高きオジサンたちがやたらと多いのである。
特にこの団地内には佃煮にしたいくらいウジャウジャいて、正直、ウンザリする。

その点、オバサンたちはいい。話の中身はほとんどたわいのないものばかりで、
人生の指針になるような話は皆無ではあるけれど、オジサンみたいに変に偉ぶったり、
卑屈になったりしないところがいい。子供自慢や孫自慢だって最初は鼻についたが、
最近はふつうに聞けるようになった。いよいよ100%オバサンになる日も近いな、
と予感させる今日この頃なのである。

団地総会などでは六法全書を片手に熱弁をふるうオジサンもいたりして、
つい涙を誘われてしまうのだが、あのような場で一席ぶって、存在を知らしめることが
自己実現の道だとたぶん勘違いしているのだろう。
(あんたは、むかしは偉かったのかもしれないけど、リタイアした今となりゃ、
誰も畏れ入ったりはしませんよ。だいいち、俺たちはあんたの家来じゃないもの
ボクは心の中でそう叫んでいるのだけれど、オジサンは我関せずといった風で、
人の迷惑も顧みず、滔々と長広舌をふるっている。

何度でも言おう。みんなに愛されたかったら、輝かしい学歴も履歴もすべて捨て、
裸一貫のキャラクターだけで勝負することだ。まちがっても「□△☆商事・元営業本部長」
などというマヌケな名刺は出さないこと。〝元〟という一字に万感の思いをこめている
つもりだろうが、笑われるのがオチだから、やめたほうがいい。

オジサンはすべからく〝オバサン化〟すべし。
幸せになる道はそれしかない。プッ……




←わが団地には気むずかしい
オジサンたちがいっぱいいる。
彼らは奥方からも神からも
見はなされている。
ああ、かわいそうなオジサンたち……

2015年8月24日月曜日

ガリバーの子孫よ、ようこそ

22日(土)から異人の居候をあずかっている。
AFSで日本の高校に留学しているチェコ人のトマーシュである。
首都プラハ生まれの17歳で、身長190センチ、体重74キロのヒョロッとした巨人である。
スウィフトの『ガリバー旅行記』に出てくる小人の国リリパットや映画『猿の惑星』の猿
は日本および日本人がモデルとされているが、トマーシュにしてみれば、
さながらガリバーになった気分だろう。わが家などは天井が低いものだから、
さっそく鴨居(じゃないけど、それに似たようなところ)に頭をぶつけている。
ベッドだって小さいから膝を抱え丸くなって寝なくてはならない。
つい同情の涙を禁じ得ないが、その厄災はすべて小人国のせいというわけではない。
巨人に生まれついてしまった身の不幸をまずは嘆くべきなのだ。

トマーシュの日本語はまだ幼児並みだ。ひらがなはかろうじて読めるがカタカナは
まだ分からない。だから今日から本格的に特訓する。本人はやる気満々なのだが、
さてどうなることやら。金髪ボインの可愛い異人ちゃんなら、手取り足取り、他にも
いろんなところを取って教えてあげるのだが、相手がガリバーの子孫の、それも
むさ苦しい男じゃねェ……教える側の意欲も今ひとつわかないのである。

彼はさっそくスカイプで母親(スタニスラーヴァ)をパソコン画面に出してくれた。
さいわい娘たち2人も応援に駆けつけてくれていたので、互いに紹介し合うことができた。
ただボクはすでに酔っぱらっていたので、何をしゃべったのかまったく思い出せない。
(あんな酔っぱらいのおやじがいる家で、息子は大丈夫なのかしら……)
たぶん異人の母は驚き呆れ、そして少なからず心を痛めたことだろう。

初日、ボクはさっそく異人を広場に引っ張り出し、キャッチボールを教えた。
生涯で2度目だという。2度目にしてはまあまあの出来だ。チェコに野球はなく、
やるのはもっぱらサッカー。冬はアイスホッケーが盛んだという。
「得意なスポーツは何なの?」
と訊いたら、しばし考えた後「水泳」だって。
「水泳パンツは持ってきてるの?」と訊いたら、
「Yes!」と元気よく答える。なければボクのインキンタムシ付き熟成パンツを
気前よく貸してやろうと思っていたのだが、まあ、活躍の場がなくてよかった。

あと数日で夏休みが終わり高校の2学期が始まる。そうなれば毎朝弁当を作って
持たせなくてはならない。別にキャラ弁みたいな凝った弁当を持たせようなどとは
ツユほども思わないが、シンプルな海苔弁というわけにもいかず、それなりに頭を
悩ますことにはなるだろう。しかしまあ、それも楽しからずや、だ。

これから半年間、異人との暮らしが始まる。
文化の違い、習慣の違い、そして何より言葉の壁が立ちはだかる。
昨日のランチには冷麺を作ってあげた。が、例によって音を立てずモソモソ
食べている。
日本では麺類を食べる時は音を立ててもいいんだよ
としつこいくらいに言ってもモソモソ食いをやめない。
わが家に来た異人たちは皆そうである。
たぶん音を立てて食べようとしても、経験がないから音の立て方が
分からないのではないか。げに習慣とは恐ろしい。

彼には新渡戸稲造の書いた『武士道』を与えた。原文、すなわち英語のそれである。
ボクのお抱え楽士であるNICKから借りたもので、これを日本滞在中に読み切れと
やんわり押しつけた。ボクは矢内原忠雄訳のものを何度も読み返しているが、
原文はボクの英語力では手に負えないくらいむずかしい。この本をなぜ押しつけた
のかというと、日本精神、サムライ精神のすべてがこの本に詰まっているからである。

(とんでもない家に来ちゃったな……俺はこれからどうなっちゃうんだろ)
トマーシュはたぶんそう思い、不安にかられていることだろう。
そう、ボクはこの異人を立派な〝サムライ〟に仕立てあげようとしている。
飛んで火に入る夏の虫か。ああ、かわいそうなトマーシュ……







←サムライに仕立てられてしまう
かわいそうな異人(異星人?かも)さん









2015年8月19日水曜日

泣くんじゃねえよ、男だろ

早実が仙台育英に負け、関東第一が東海大相模に負けてしまった。
一年生ながら打率4割7分、打点8、ホームラン2本という怪物の清宮幸太郎や、
チームを率いるキャッチャーの加藤、2打席連続ホームランの富田など、錚々たる
スラッガーを擁する早実が決勝まで進んでくれるものと期待していたが、叶わなかった。
テニスの錦織が敗れ、清宮やオコエ瑠偉までもが消えてしまったら、
(明日から何を楽しみに生きていったらいいんだ……)
と、正直ガックリくる。

格別、高校野球が好きなわけではない。むしろ無関心に近く、夏の甲子園などは
(見てるだけで暑っ苦しい)と完全無視。バンビ君やハンケチ王子にも縁がなかった。
唯一、記憶にあるのは1969年、青森三沢高校と松山商業との熱闘2日間で、この時
ばかりは三沢高校の白皙のピッチャー・太田幸司を真剣に応援したものだ。

高校野球がなぜ苦手かというと、「汗と涙の甲子園」といった浪花節的ムードが
イヤなのだ。負けると、身も世もないくらいに泣きじゃくる選手たち。
喜怒哀楽は素直に出したほうがいい、と日頃言ってるくせに、
負けると判で捺したように泣きじゃくる選手たちの顔を見るのがきらいなのである。
(力いっぱい戦って敗れたのだから、いっそ爽やかに笑顔でいてほしい)
そのほうがどれほどカッコいいか――ボクはそう思うのだが、世間はどうやら逆らしい。

公衆の面前で恥ずかしげもなく泣くという行為に対して、日本人は概ね寛容だ。
「それだけ純真だってことだよ」と、むしろ泣くことを期待しているフシがある。
「世界水泳」の渡部や星が金メダルを取って大泣きした時もそう思ったのだが、
日本の観客は「涙は美しい」と考えているのではないか。
テレビ局のインタビュアーはよく、
「天国のお父さんもきっと喜んでいるでしょうね」
などと、選手の涙を誘うようなセリフを必ず吐く。
泣かない奴は人でなし、みたいな雰囲気が自然と作られてしまう。

男は一生の間で2度泣くことが許されるという。
1つはオギャーと生まれた時、2つめは母親が死んだ時である。
てなわけで、母が死んだ時は思いきり大泣きしたものだが、
もうあとがない。

「娘さんの結婚式の時も、たぶん大泣きこくだろうな」
口さがない悪友どもは、こう言ってボクの涙を期待したものだが、
みごとにハズレた。そんなつまらないことで泣くようなヤワな精神ではないぜよ。
見損なっちゃあいけませんぜ。

清宮も敗戦インタビューで少し泣いていた。
「コラッ、泣くんじゃない! 男がすたる!」
ボクはテレビ画面に向かって咆えた。
このおやじは年がら年中、テレビに向かって咆えている。

「また甲子園に舞い戻ってくるから砂なんか要らない」
と清宮。彼らしいセリフで、ボクは少しだけ見直してやったが、
それなら砂と同じく涙も要らなかった。

嗚咽しながら甲子園の砂を袋に詰める選手たち。
あの光景を美しいと見るか、情けないと見るか――
ボクはむろん後者で、どうしても
「未練ったらしい……」
と思えてしまう。

お父さんは甲子園に行ったんだぞ、といつの日か、
その土を披露して、子や孫に自慢したいのかい?
まだ10代という若い身空で、50年後に自慢するための証拠品集めかい?

彼らの涙を責めはしない。
甲子園の砂を袋いっぱいに詰めるのも、まあいいだろう。
ただボクなら泣かないだろうし、土なんか死んでも持ち帰らない。
すべては美意識の違いだと思っている。
甲子園球児たちをバカにしているわけではもちろんない。
ただ一言いいたいむずかしい年頃なのだよ、このおやじは。
青年よ、赦せ!





←今やお馴染みになった
甲子園の砂集め。
ボクの目には「未練」と映る

2015年8月7日金曜日

八月は業火に焼かれる月

◆8月某日(晴れ)
こどもの頃は夏が好きだった。
弟といっしょによく川越の市営プール(ボクたちは陰で〝しょんべんプール〟と呼んでいた)に通い、
帰りに駄菓子屋に寄って、何やらわけのわからないお菓子(四角いワッフル状の菓子で、
小麦粉を甘く練って蒸かしたもの)を買い食いするのが楽しみだった。駄菓子屋には得体の
知れないお菓子がいっぱいあり、それらは様々な添加物や色鮮やかな合成着色料に
まみれていた。おかげで丈夫なカラダができた。

夜になると蚊帳をつって寝た。ホタルを放つこともあった。
寝苦しかったが、今ほどではなかったような気がする。

この頃は、夏が厭わしくなってきた。
暑さだけではない、8月はいやでも先の大戦を思い出させる月なのだ。
「安全保障法制」が「戦争法案」などとケチをつけられ、安倍内閣が
窮地に立たされている。バカは死ななきゃ治らない、というが、
「朝日・岩波文化」に毒され続けると、「自虐史観」も骨がらみになってしまう。

高校で「近・現代史」が必修になるという。
「遅かりし由良之助」には違いないが、まずは悦ばしい、と言っておこう。
ただ問題は、教える中身だ。日教組の反日教師に教えられた日にゃ、
目もあてられない。

◆8月某日(また晴れ)
台所に立っている時、洗濯物を干している時、公園を散歩している時、
ふとしたはずみに母のことを思い出してしまう。地獄の釜が開く
お盆の月だからだろうか、近くに母の気配を感じてしまうのである。
「母さん……」
心の中で小さく呼びかけると、母はなぜか遠くに行ってしまう。
淋しそうな顔をしている。
「母さん………」

◆8月某日(またまた晴れ)
ロシアはカザンで開かれている「世界水泳」で、星奈津美(200㍍バタフライ)に次いで
渡部香生子(200㍍平泳ぎ)も金メダルを獲得した。まずはメデタイ。ただひとつだけ注文。
インタビューに臨んで感極まったか、2人は大泣きしてたが、あれはやめてほしい。
いい大人がみっともないのだ。人前では涙を見せない――感情をコントロールするのも
大人のたしなみです。

◆8月某日(たぶん晴れ)
17日(月)に新橋で「司馬会」が開かれる予定だ。
この会は、もといた会社の同僚(男3人、女1人)たちと結成した司馬遼太郎を
愛する会で、今回は「オス2匹+メス1匹」の組み合わせ。この美人のメスA女史
は司馬の『燃えよ剣』が大好きで、土方歳三にぞっこん惚れ込んでいる。

以前は、司馬作品の品評会の趣が少しはあったものだが、年を経るにしたがって、
ごくふつうの〝飲み会〟になってしまった。今回は久しぶりの会だけに初心にかえって
まじめに語り合いたいと思う。

※追記
メスがもう1匹加わることになった。女房である。美人のメスA女史と書いたので、
危機感を感じ目付役に回ったのだろう(プッ!)。ますます司馬さんが遠くなっていく。

◆8月某日(晴れ……ウンザリ)
周囲に思いのほか〝朝日新聞派〟が多くてウンザリする。
あれほどの誤報・虚報を流し、日本国および日本国民の名誉を著しく
傷つけた新聞だというのに、いまだに購読をやめず、朝日の論説のマネをして
安倍政権批判を繰り返している。この連中は〝恥〟というものを知らないのだろうか。

ボクの師匠の山本夏彦は、
理解は能力ではない、ただ理解したいか、したくないかがあるだけ
と言った。つまり理解力の有無ではなく、ただの「願望」だというのだ。

左巻きの人を相手に「安保法制」の重要性を説いても、おそらくムダだろう。
ボクは幾度となく左巻きを相手に議論をしてきたが、徒労だった。
ハナから分かろうとしない人に、千万言を費やしても決して分かってはもらえない。
そもそも分かろうという意志も願望もないのだから、いくら委曲を尽くしてもムダなのだ。
夏彦は言う。
《人は分かって自分に不都合なことなら、断じて分かろうとしないものだ》
そう、
理解は、だから能力じゃない、願望なんだ》(『意地悪は死なず』より

最後に夏彦の決まり文句をひとつ。
《人間というものはいやなものだなあ》(『良心的』より







←蚊帳を吊って寝る。懐かしいなあ……

2015年8月4日火曜日

水泳でも〝中高年の星〟に

この炎天下、ものの数十分も外歩きをしたら、ジジイの丸干しができあがってしまう。
それでも必死の形相でジョギングしているおじさん(寿命を縮めてるだけなんだけどね)や、
気息奄々、いまにも息が絶えそうな顔で買い物袋をぶら下げているおばあさんもいる。
今年の夏は、日本国じゅうが、サバイバルゲームの戦場と化している。

こんな時は、ムリして外出するよりは冷房の効いた部屋で「世界水泳2015」なんぞを
見ていたほうが数段利口だ。汗だくでボールを追うサッカーや、汗みずくのデブ同士が
激突する相撲なんぞを見ていると、こっちまで大汗かきそうだが、なんてったって水の中
だものね、見ているほうも全身の汗が引いていくような涼やかな気分になる。

試合会場はロシアのカザンという町。あいにく日本のホープ・萩野公介は右肘骨折で欠場
しているが、代わりに入江陵介や瀬戸大也、渡部香生子などが万丈の気を吐いている。
昨日は、ブレストの渡部が200㍍個人メドレーに出場し、みごと銀メダルを獲得した。
非凡の才は早くから注目の的であったが、いままさに全開ってところか。

アメリカのケイティ・レデッキー(18歳)もすごい。昨日は1500㍍フリーの予選で、
はやくも世界新記録を出している。過去にはイアン・ソープやマイケル・フェルプスなど
天才的逸材が話題になったものだが、今年の世界水泳のヒロインはまちがいなく
このレデッキーだろう。また男子ブレストでは、イギリスのアダム・ピーティーが彗星の
ごとく飛び出してきた。ブレストでは北島康介が一時代を築いた時期もあったが、
いよいよ「ピーティー時代」の到来が予感される。

テレビ中継を見ていると、アナウンサーや解説者は、お決まりのようにこう言う。
「□△選手は後半強いですからね……」
いつもそう。日本人選手はたいがい「後半強い」ことになっている。
期待して応援していると、たしかに後半追い上げる選手も中にはいるが、
結局は先行選手に逃げ切られてしまう。なぜか? 
ライバルの有力選手は「前半」も「後半」も強いからである。

それと常套句のように言うのは、
みんないい表情してますね」というもの。
選手控え室などの表情を見ても、特に緊張するでもなく、リラックスした
〝いい表情〟をしているというのだ。ボクなんかこうしたコメントを聴くと、
「それがどうしたんだよ!」と突っこみたくなる。
「いい表情をしていれば試合に勝てるのかよ!」
どのスポーツ競技においても〝いい表情〟についてコメントする日本のスポーツ
解説者というのは、いったい何の根拠があってそんな無駄口をたたくのか。
ボクは高校時代、水泳の試合で、いつも「いい表情」をしていた、と自分では思って
いるのだが、試合ではことごとく敗れた。表情なんて関係ない。

それにしても、一流選手というのはおそろしい。
ボクが50㍍泳いでいる間に軽く100㍍は泳いでしまう。
ジジイ一匹と若鮎のような一流選手と比較すること自体がそもそもアホらしいのだが、
彼らのスピードは尋常ではないので、どうやったらあんなに速く泳げるものなのか、
その〝秘訣〟とやらをこっそり教えてもらいたくなる。

最近は体力がめっきり落ちてしまったが、それでも地元のプールでは
上位数名の中に入っている。活きのよさそうな若いもんにも負けていない。
こういうのを一般に〝爺意識(じいしき)過剰〟とか〝夜郎自大〟という。
おバカな韓国人の得意技とされているものだが、
いよいよ俺も誇大妄想狂のコリアンに似てきたのかもしれない。嗚呼! 

水泳はいい。運がよければ〝聖水〟の恩恵に浴することだってできるし、
身体だってぐっとひき締まる。ゴルフみたいに金を食うわけでもない。
パンツ一丁とゴーグル、水泳帽さえあれば、どこでも泳げるのだから、
ボクみたいな貧乏人にはもってこいのスポーツなのだ。
ボクは水泳でも〝中高年の星〟になるつもりだ。




←1500㍍フリー予選で、世界新記録を
マークしたケイティ・レデッキー。態度も
でかいが、図体(183センチ)もでかい。